大好評のインタビューコーナー第27回は、日本サッカー協会(JFA)第13代会長 現 最高顧問・日本サッカーミュージアム館長・殿堂委員長 大仁邦彌さん(15回生)です!
とにかく厳しかった神高サッカー部
1975年1月5日(国立競技場)日本代表 対 バイエルンミュンヘン での大仁さん ©日本スポーツ出版社写真部
-この度はお忙しいところインタビューをお引き受けいただき、ありがとうございます!
お伺いしたいお話がたくさんあります。
まずは神戸高校に入学された頃の話からお聞かせいただけますか。
私は神戸市東灘区で生まれ、本山第三小学校、本山中学校と進学し、神戸高校に入学しました。
中学校3年生の時からサッカーを始めました。
それまでは「サッカー部、ガラが悪いな~」と思いながら外から見ていたのですが(笑)、
中学校3年生になった頃に「やっぱりサッカーをやりたい!」と思って、サッカーを始めました。
今ではもっと小さいときからサッカーを始める子が多いでしょうが、当時は小学生でサッカーをやっている子はほとんどいなかったと思います。みんな野球、草野球をやっていましたね。ですから中学校3年生で始めたのは、特段遅いスタートというものでもありませんでした。
当時は神戸高校サッカー部がとても強かったので、中学校の先生に「神戸高校に行ったらどうだ」と言われ、それで神戸高校を目指すことにしました。その先生がみっちり勉強も教えてくださって、なんとか神戸高校に合格しました。
神戸高校に入ってすぐにサッカー部に入りました。
-今の神戸高校サッカー部のキャプテンは、大仁さんと同じく本山中学校卒業生ですよ!
えっ、そうなんですか。今本山中学校サッカー部は強いですか。
-はい!神戸高校にも精鋭が入学してきています。近隣で言えば、本庄中学校サッカー部が全国大会に出場しました。
本庄中学校と言えば、本山中学校よりも南にある中学校ですよね。全国大会に行ったのですか。頑張っていますね!
-大仁さんが入学された頃の神戸高校サッカー部について、お聞かせいただけますか。
強かったですね。県で優勝とか、常にそのレベルにありました。
監督が当時の校長先生(高山先生)だったこともあって、練習はとても厳しかったですね。本当に厳しかった。
校長先生が校舎から出てきて直接ああしろ、こうしろと指導してくださるんだけれども、雨の日は服が濡れるからか、服を脱いでパンツ一丁で出てくるんです。校長先生がですよ?(笑)
それで、指導しながら小石とか砂利とか投げるんです。
もう一度言いますが、校長先生がですよ?(笑)
上下関係ももちろん厳しかったです。特に2年上の先輩方は怖かったです。
地獄坂があるでしょう?
なにかあると「あそこ(地獄坂)行ってこい!」と言われていました(笑)。
当時のサッカーシューズは、ゴム底ではなかったんです。
革の靴底に釘をうちつけたものを履いていたので、走らされている間にだんだん釘が靴底から出てくるんですよ。それが痛くて痛くて...。
普通はバス道からの坂ダッシュでしたが、ひどいときにはさらに南、王子公園の近くからダッシュ、なんてこともありましたね。
そして今と違って、当時はボールの数が少なかったので、ボールがグラウンドの外に出たら、球拾い担当である1年生が飛んで行って、すぐにボールを戻さなくてはならない。
それがね、グラウンドの外はあの「地獄坂」でしょ(笑)。地獄坂を転がっていくサッカーボールを追いかけるわけです。
西側にボールが飛び出せば川があるでしょ。あの川に入っちゃったり。要領が良い部員は、夏場、川の水を飲んだりしていました。私の学年は7人しか部員がいなかったので、大変でしたよ。
今はわかりませんが、当時のサッカー部は朝練はありませんでした。
夏休みは「二部練習」というのがあって、私は夏休みの練習が一番嫌でした。
なぜかって?
夏休みの練習にはOBが来るんですよ(笑)。
部員が3学年合わせて20~30人のサッカー部に、OBが40~50人来るんだから!
「夏休みなんだし、大学生の皆さんは練習なんかに来ずに、どこか遊びに行ってくださいよ~」と思っていました。
サッカー部には先輩にも素晴らしい選手がいましたから、そういう面ではよい環境でしたし、先輩方を見ていてとても勉強になりました。
私が高校に入学した時の3年生のキャプテンが友利さんという方で、関西選抜に選ばれて全国大会にも行っていました。そういう場で学んだことを、神戸に帰ってきていろいろ教えてくださいました。これがすごく勉強になりましたね。全国大会レベルでの指導を聞けていましたからね。友利さんは高校卒業後、関学に進んで、大学サッカーでも大活躍されておられました。
後輩にも強い選手がいましたよ。細谷選手、村越選手とかね。
-強い選手がたくさんおられたサッカー部。定期戦でも大活躍だったのではありませんか。
定期戦!
そうですね、全校応援でしたから、「モテたい」という邪な思いがあって、それはそれは気合が入っていましたね(笑)。
実際は全然モテなかったのですがね。
学校行事で言えば、摩耶山の冬の登山マラソン、今もあれやっているんですか?
あんなことやりたくなかったですよね(笑)。普段散々走っているのだから、「もういいじゃない」と思っていました。
ちゃんと参加しましたけれどね。
勉強は全然ダメでした。
入学して最初のテストから、卒業するまで、順位が上がることはありませんでしたね。
-勉強は全然ダメと仰っておられますが、大学は慶應義塾大学に進学されて...(笑)。
はい、一浪して慶應に行きました。
サッカーは当時、関東勢の方が強かったのと、神戸高校サッカー部の先輩で慶應に進学する方が結構いらっしゃったんですよ。
それに加えて、とにかく実家を出たかった(笑)。「大学になっても実家にいるなんて嫌だ、自由になりたい」という思いがありました。
慶應サッカー部で一番楽だったのは、その練習環境でした。砂が柔らかかったんです。スライディングしても擦りむかない。
神戸高校は「細かい砂利」で、スライディングしたら痛いんですよ。特に私はディフェンダーだったので。
慶應サッカー部は神大のサッカー部と定期戦もやっていました。
一時中断していましたが、この間は「日吉でやった」みたいなことを聞きました。交流が復活したんですね。良かったです。
「シーズン」の壁
-大学卒業後は三菱重工に入社されました。
はい、三菱重工に定年までいて、その後サッカー協会に移りました。
今は三菱重工 グループ戦略推進室 広報部の顧問もしています。
どうして今も三菱重工の広報部にいるかと言いますと、Jリーグの浦和レッズは三菱重工がやっているんです。三菱重工の広報部が浦和レッズを管轄しているんですね。レッズ関係でサポートを、ということで広報部にいます。
浦和レッズ、最近勝てていないんですけれどね...。今ヴィッセル神戸にいる槙野選手も、もともと浦和レッズにいたんですよ。
私個人的には長谷部選手に日本に、というよりも浦和レッズに戻ってきてほしいなと思っています(笑)。
-サッカー協会の会長をお引き受けになった際に、大仁さんが取り組んでみたいと思われていたことをお聞かせいただけますか。
日本のサッカーにとって一番大切なのは、ワールドカップに出場することです。
だから「ワールドカップに出場」、これを意識していました。
次に、代表チームを強くするために「育成」に力を入れること。
これは以前からサッカー協会が、「ユース育成」や「指導者養成事業」にも力を入れていました。
それから、サッカー協会が支援して各都道府県にトレーニングセンターを作ること。
だいぶそれが実現したので、では次はサッカー協会が自分たちのトレーニングセンターを作ろうではないか、ということで、幕張にナショナルトレーニングセンターを作りました。
私が会長の間に、トレーニングする施設の整備がだいぶできたかなと思っています。
-サッカー協会の会長としていろいろなことに取り組まれる中で、「これは難しかった」ということはありましたか。
シーズンの問題ですね。
ヨーロッパのシーズンは夏から始まるんです。早ければ夏前に始まります。
サッカーはヨーロッパ中心ですから、そこのシーズンが合わないと選手の移籍とかいろいろな試合のスケジュールが合わないのですよね。
ワールドカップについても壁がありました。
ワールドカップは大体6月に開催されます。今年はカタール開催なので暑いということで6月開催ではないのですが。
日本はシーズンが3月・4月に開幕するので、ワールドカップに挑むとなると、日本のチームに所属する代表選手たちはちょうどシーズンの最中に休まなければならなくなる。
この「シーズン」の問題がずっと大きな壁でした。
いまだに解決できていないですけれどね。
ヨーロッパに合わせて日本でもスケジュールを組むとなると、グラウンドや気候の問題があります。冬の雪が降っている環境でもやらなくてはならないし、めちゃくちゃ暑い夏も乗り越えなくてはならない。選手たちにとっては過酷ですよね。
グラウンドの環境や芝生のコンディションについては近年格段に良くなってきていますけれども、ヨーロッパはシーズンを変える気はないですし、日本もこれといった解決策を見いだせていない状況です。
日本サッカー殿堂 第17回はフィリップ・トルシエ氏と木村和司氏が殿堂入り
1999年4月 ワールドユース準優勝 フィリップ・トルシエ監督らと
-サッカー協会の会長を退任されたあと、最高顧問に就任されました。
サッカー協会には今も時々行っています。
文京区「サッカー通り」にあるんですよ。
-サッカー通り!まさに日本サッカーの中心という感じですね!
その隣に日本サッカーミュージアムがあって、ここは毎日開いているのですが、
私はそこの館長もやっているので、ミュージアムで何か催しがあるときはミュージアムにも行きます。
私は、日本サッカーミュージアムの中にある日本サッカー殿堂の殿堂委員長もやっています。
毎年9月10日に、殿堂入りの式典をしているのですが、コロナの影響で式典ができておらず、
今年は6月に日本-ブラジル戦を観るために来日したトルシエ氏に、記念レリーフが授与されました。
(※第17回 2020年度日本サッカー殿堂掲額者であるトルシエ氏と木村和司氏については、既に掲額はされているものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響により式典は行われていませんでした。)
-トルシエ監督!!ユニークな通訳の方と共に、強烈に印象に残っています。
フローラン・ダバディね!
トルシエが日本代表の監督をしていた時、私は強化委員長をしていたんです。
当時はずいぶん彼と喧嘩したものです。
「日本のサッカーの問題は何か。Jリーグだ!Jリーグのスケジュールを変えろ」とか「日本代表中心のスケジュールにしろ」とか、とにかく言いたい放題の監督でしたが、本人は、言うだけ言ってケロッとしている(笑)。
今回殿堂入りが決まって、彼、大喜びではしゃいでいました(笑)。
-日本代表の監督は、どのようにして決まるのですか。
技術委員会というのがあるのです。
そこで日本代表の戦いを分析して、課題を見出し、そのためにはどういう監督が適任だろうか、と考えていくんですね。
その中でも、日本のサッカーについてよくわかっていて、世界のサッカーのこともよくわかっている人...というようにいろいろな要素を踏まえながら候補を立てて、交渉に入ります。
Jリーグ開幕が日本サッカー界にとって大きな変換をもたらした
中田英寿選手、名波浩選手らと
-大仁さんが日本代表としてプレーしておられたときと、今の日本代表の選手たちとを比べた時、どういうところがどう変わったと感じておられますか。
私が現役だった時とは、全然レベルが違います。
今の日本サッカーのレベルは、格段に高くなりました。
大きく変わった一番のきっかけは、「Jリーグ開幕」です。
Jリーグが始まったことにより、練習場の整備も進みましたし、世界中から選手や指導者が日本に集まりました。
もちろんそれまでにもユース育成や指導者養成、いろいろなことに取り組んできていましたけれども、Jリーグが日本サッカー界の大きな変換点となったことは言うまでもありません。
また、Jリーグというプロの世界ができたことにより、子どもたちに「サッカーのプロ選手になるんだ」という夢や目標を、与えることができるようになった。小さい頃から育成してJリーガーに、というシステムも構築できました。
だから、川淵三郎さんは偉い!(笑)
-では、大仁さんの時代の高校サッカーと、今の高校サッカーとを比べると、いかがでしょうか。
私の時代は、高校・そして大学でのサッカーしかなかったので、学校のサッカー部で頑張って、上の大会を目指すという感じでした。
対して今は、学校でのサッカーに加えて、クラブチームでのサッカーという選択肢が増えました。
Jリーグに所属しながら大学に通うことも、高校サッカー、大学サッカーという風に学校のサッカー部で活躍することもできる。
昔と比べて選択の幅が大きく広がりました。
それはそれでよかったと思います。
-大仁さんが神戸高校を卒業後上京してサッカー界で活躍されてきた中で、「神戸高校を卒業していて良かった」と思われたことはありましたか。
神戸高校サッカー部であの厳しい練習に耐えてきて良かった、と思っています。
本当に厳しかったですから。
体力的にももちろんですが、練習の緊張感がとてつもなくて、精神的にも疲れていました。
帰宅後に勉強する余力なんて残っていなかったですよね。言い訳するわけじゃないですけれど(笑)。
OB同士で交流を続けてきましたけれども、神戸高校サッカー部同期のうち4人は亡くなってしまいました。
海外のトップチームで監督をできるような日本人指導者を
-さて。今年はカタールでワールドカップが開催されます。
大仁さんから見て、今の日本代表はいかがですか。
キリンカップでガーナ戦、その前のブラジル戦も観戦しましたが、良くなっていますよ!特に技術的に精度が高くなっていますし、連携プレーもうまくなっています。
いいチームになっているなと感じています。
-中田英寿選手らが活躍していた時代は選手個人の「個性」が強く光っていた印象ですが、
現在は選手たちの協調性が重んじられていて、マイルドになっているのかなという印象です。
そう思います。
チームワーク、チームプレーについては非常に良くなっていますよね。
一方で、ブラジルやアフリカのチームに比べると、
試合中に「パスをつなぐべきか」、「違う方向にボールを持って行くべきか」、「ここを突破するべきか」という局面の時に、
自分で判断し勝負に出たりチャレンジしたりする選手が少ないような気がします。
例えば残りの試合時間が〇分だ、今1-0で日本がリードしている、そういう状況で、一人ひとりがどうプレーするべきか考えて実行する力が、まだ足りないですね。
小さいときからサッカーをやってくる過程において、指導者が「ああしろ、こうしろ」と言うだけではなくて、もっと一人ひとりに「自分で考える」場面を与えたり、自分で判断する癖をつけさせることが必要かなと。
今まではとにかくサッカーの技術を上げることに注力してきました。
そして日本のサッカーのレベルは技術面において非常に高くなってきました。
ここからは次のステップとして、選手の「判断力」を上げていかなければならないと感じています。
現在の日本代表スターティングメンバ―は、ほとんど、海外のクラブチームでプレーしている選手です。
これは非常に大きいですよね。どんどん良い選手が増えています。
指導者という点で言うならば、今は海外で指導した経験を持つ指導者がほとんどいません。
日本代表の監督で言えば、岡田監督が中国で指導したくらいでしょうか。
-言語の問題がやはり大きいのでしょうか。
言語の問題ももちろんありますね。
あとは、現地での組織づくりも難航します。
現地で一人ひとりのスタッフを上手に活かしつつ、いかに選手とコミュニケーションをとっていくか。難しいですね。
監督ひとりでチームは成り立たないですから。
これから先、海外のトップチームの監督をできるような日本人指導者が増えてきたらいいなと思います。
自分で考えること、自分で判断することが大切
-大仁さんが神戸高校でサッカーをしていたのが約60年前。この60年で日本サッカー界も大きく変わり、選手のレベルも高くなりました。
今から60年後。
日本サッカー界はどのように変わっているでしょうか。
60年後はどうなっているかな(笑)。
60年前と比べると、今はいろいろな情報が手に入り、いろいろなトレーニングがあって、いろいろな機材があります。
この先もどんどん進んでいくでしょうね。
そして進化すればするほど、個性がとんでもなく強い選手、変わった発想をする選手が増えてくるのではないかなと思っています。そういう選手が増えて面白くなってそうだな。
-これから60年の間に、日本はワールドカップで優勝を経験しているでしょうか。
2050年までにワールドカップを日本でもう一度開催して、そこで優勝するというのが今のサッカー協会の目標です。
ベスト16には入れたので、次はベスト8入りを叶えて、その次に優勝!...これが実現したら嬉しいですね。
-最後になりましたが、このインタビューを読んている神戸高校の現役生や、進路を検討している中学生のみなさんに、メッセージを頂戴できますか。
そんな責任の重いことを(笑)。
先ほども少し話しましたが、今はいろいろな情報やいろいろなものが氾濫する世の中ですよね。
だからこそ、
自分で、考えること。
自分で、今何をすべきかを判断すること。
これが大切だと思います。
言われたこと、与えられた情報を鵜呑みにして行動するのではなく、自分で情報を整理して、自分で考えて、自分で判断する。それを意識してほしいですね。
-楽しいお話をありがとうございました!
今後の大仁さんの益々のご活躍と、日本サッカー界の益々の発展を、同窓生一同お祈りしております!
【あとがき】
今回特別に、大仁さんから神戸高校サッカー部の現役生の皆さんに、ビデオメッセージもいただきました。
神高サッカー部の皆さん!顧問の林先生と安田先生からメッセージを見せてもらってくださいね!