気が付いたら山が「遊び場」になっていました
同窓会広報担当者(以下「WM」);お忙しいところインタビューをお引き受けくださり、本当にありがとうございます!!
花谷さんのホームページやfacebook「ヒマラヤキャンプ」、楽しく拝見させていただいております。
花谷さん;ありがとうございます。
神戸で生まれ育って両親や祖父に連れられて六甲山に通う幼少時代を過ごしました。
気が付いたら山が遊び場になっていたので、今でも山登りは生活の一部のような感覚です。
WM;
小さいころから山に親しんでこられたのですね。
2013年に登山界のアカデミー賞とも言われる「ピオレドール賞」を受賞されるなど大活躍の花谷さんですが、六甲山の自然のなかで幼少期を過ごされたあと、どのようにして登山家への道を歩んでこられたのか、教えていただけますか。
花谷さん;神戸高校を志望した理由は、兵庫県で一番山岳部が強かったからです。(笑)
中学3年生の1学期の成績ではとても合格ラインに届かなかったので、半年間は猛烈に勉強して何とか滑り込みました。
いざ高校に入ってみると、山岳部のイメージがあまり良くなかったので、最初は違う部活に入りましたが、自分の気持ちには逆らえないもので、結局1年生の途中で転部して山岳部に入りました。当時、同期は0人。とても強かった2年上の先輩方も既に引退され、寂しいスタートとなりました。
WM;同期0人からのスタート!(驚)
花谷さん;2年生になってからはまずは後輩の勧誘に力を入れて、48回生4人が入りました。僕の山岳部生活はここからスタートしたと言ってもいいぐらいです。
普段の練習は高校の裏にある登山口から摩耶山に向けて山走りや歩荷の日々でした。当時は「トレイルランニング」なんてというオシャレな言葉はありませんでしたけどね。歩荷というのも、ザックに25キロ入れて担ぎ、ただただ歩くんです。
この時に身につけた体力はその後の僕の登山人生には大いに役立っていると思います。
結局こういう地味な練習をどれだけ続けたかが地力になるのではないでしょうか。
同期がいなかったこともあり、3年生になって自動的に主将になりました。
ずっと指導してくださった顧問の勝先生が年度末で異動になり、とても不安なスタートだったことを覚えています。
しかし目標を全国大会出場と国体出場に絞り、後輩たちと練習の日々を過ごしました。
新しく顧問になった斉藤先生もとても一生懸命に支えてくださり、結果として県大会で優勝してインターハイに出場できました。残念ながら国体には2年続けて近畿予選で敗退しましたが、充実した一年だったと思います。
高校進学と同じ動機で大学も山岳部が全国的にも有名な信州大学に進みました。
学部はどこでもよくて山岳部に入りたかったのですが、たまたま僕が受けた年に教育学部に「野外活動(※現在は「野外教育」に名称変更)」という学科ができて、この字面だけで受験しました。(笑)
ところが。センター試験の3日後にあの阪神大震災。同級生を含め、多くの高校関係者が亡くなりました。
大学に入ってからはますますエスカレートしてしまい、山岳会に入って年に100日程度山に行く生活でした。
在学中には二回休学して、ヒマラヤ・アラスカ・アンデスなどの海外の山々にも挑戦しました。おかげで大学には6年間通うことになりました。(笑)
そのまま就職活動などもせず、卒業後も登り続ける生活を選び、20代は季節労働をしては海外に登りに行く生活でした。夏は富士山でガイド、冬は当時富士山の頂上にあった富士山測候所に食料や資材を運ぶ強力(ごうりき)などをしていました。一年間で50回以上富士山に登る生活でした。
WM;
まさしく「山、山、山・・・!」の人生を送ってこられたのですね!
花谷さん;
ええ、そうですね。
でも決して順風満帆ではなく、28歳の時に遠征したインドの山で大怪我をして、1年半ほど登山を中断する時期もありました。結局この山には2年後に再挑戦して登頂しました。
そして次の転機が30歳で山岳ガイドになったことです。山岳ガイドという職業はヨーロッパでは国家資格で子どもにとっても憧れの職業なのですが、日本ではようやく認知され始めた頃でした。しかし登山ブームという追い風もあって、すぐに忙しくなりました。30代は山岳ガイドと自分の登山を活動の両輪にして、とても充実した時間だったと思います。36歳の時にはネパール・ヒマラヤで大きな登山に成功して、登山界のアカデミー賞とも言われている「ピオレドール賞」を受賞しました。
その後は自分の活動のミッションを、「登山文化の継承と発展に貢献し、多くの人々が登山に親しむ世の中を作る」と掲げ、ヒマラヤキャンプという若手とともにヒマラヤ登山に挑むプロジェクトや、最近では地元(山梨県北杜市)と連携して、山小屋の運営や登山マップの作成などにも取り組んでいます。
後輩たちには 自分の心が震えるような登山体験をしてもらいたいですね
WM;
神戸高校山岳部は本年8月、23年ぶりにインターハイ出場を果たし、見事5位に入賞。
多くの同窓生がその一報に勇気と感動をもらいました。高校時代は山岳部主将、現在プロの登山家として活躍されておられる花谷さんは、どのようなお気持ちでこの後輩の活躍をご覧になっておられますか。
花谷さん;
23年前、最後にインターハイに出たのが僕が主将だった時ですね。
あの時は同期がいなかったので、48回生3人と共に出場しました。
今でもよく覚えているのが、当時は他校の山岳部顧問だった桑田先生(※現神高山岳部顧問でご自身も山岳部OB)が、県大会の結果発表前に「課題が残る大会だったねー」とボソッと言ったことでした。
これを聞いた時に負けたと思いましたが、結果として県大会で優勝して全国に進みました。全国大会では競技よりも楽しむことを優先したので入賞などはできませんでしたが、今回はきっちりと結果も残してきましたね。素晴らしいことだと思います。
登山というものは究極の自己満足であって、本来は他者に優劣をつけられる行為ではありません。インターハイで結果を出すことと、「良い登山」とはまた違います。
インターハイに出場することで得られた経験を、今度は自分の心が震えるような登山体験やそのための活動をしてもらうことに活かしてもらえたらいいなと思います。
こういうご時世だからこそ 山岳部で得られる技術は得がたいものなんです
WM;先日、神戸高校の“全国大会壮行会”に取材に行ったのですが、登山競技の審査基準を聞いて会場がどよめいていました。「競技」としての登山は、私たちが想像するような登山とは全く異なる印象です。
花谷さん;
登山競技の内容は、いまでも僕の高校時代とほとんど同じだと思います。
競技といってもただ単に速さなどを競うのではなく、天気図を書いたり知識の問題があったりと、机上の力も試されました。
食事内容や調理方法なども審査の対象です。テントを制限時間10分で美しく設営するなんて、端から見たら「何やってるんだ」という光景ですよ。(笑)想像して下さい。ラグビー部やサッカー部が練習をしているグラウンドの隅で、気合い入れてテント建ての練習してるんですよ!
先ほども話しましたが、そもそも登山という活動には順位をつけようがないので、競技にする時点で矛盾だらけなのです。
一見無意味に感じる競技登山ですが、今になって思うのは、この時に身につけた登山技術はとても役に立つものだったと思います。採点はされるものの、その競技内容は登山の基礎そのものでした。逆に言うと、これをきっちりこなせたら、登山者としてもある程度の力量があると言えます。
いまは学校の山岳部や社会人の山岳会に人が集まらなくなっていて、登山を学ぶ場が少なくなってきています。そういうご時世だからこそ、山岳部で身につけることが出来る登山の基礎技術は得がたいものですし、後輩たちにも高校3年間できっちりと登山の基礎を身につけてもらえたらいいなと思います。
WM;
世界中の山々に登られている花谷さんですが、今まで登られた山の中で、特に印象に残っている山はありますか。
花谷さん;
全力を尽くしたという点では、やはり2012年のネパール・ヒマラヤ、キャシャール峰(6770m)南ピラーの初登攀成功です。これまで積み上げていった全ての力を発揮することができたと思います。これ以上の登攀となると、本当に命を削っていかなければならないなあとも感じました。一生のうちでそう何度も体験できない精神状態だったと思います。決してネガティブ(死を覚悟する)とかではなく、自分の能力を最大限発揮し続けることに全ての集中力を使っていた感じです。でも、こんなことばかり毎年続けていたら、そのうち死んでしまうとも思いますが。(苦笑)
あえて一番をつけるとするならば、2006年に登ったインド・ヒマラヤのメルー中央峰(6250m)でのクライミングです。実は同じ山の映画が去年末から今年始めにかけて全国で上映されていたので、もしかしたらご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。この山は2004年の挑戦で大怪我をした後、長いリハビリ期間を経て2年後に再挑戦して登れた山です。後にも先にも、頂上で涙が止まらなかった山はここしかありません。
あとは意外に思われるかもしれませんが、大学生時代に冬の南アルプスを30泊31日で縦走したことがあるのですが、ボロボロで悪臭を漂わせて最寄り駅を目指して歩いていた我々に声をかけて車に乗せてくれた方がいて、なんと一宿一飯の恩義にあずかったことですね。我々は、1ヶ月風呂に入っていない大学生だったのに!20年前のことですので、登山中のことはほとんど忘れてしまったのですが、この時の温かい思い出だけはいつまでも忘れずにいます。
好きなことしかしなかった。それぞとことんやり続けるという姿勢は今も変わりありません
WM;
ところで神戸高校時代、花谷さんはどのような高校生でしたか。
花谷さん;
高校3年生の時の担任の藤本先生からは、保護者面談の時などに本気で心配されるぐらい勉強嫌いでしたね。(笑)
勉強はできなかったけど、登山だけはいままで真剣に続けてきたおかげで、いまでもこの世界で生きていくことができています。
勉強嫌いを正当化するようですが(笑)、好きなことしかしなかった。それをとことんやり続けているという姿勢は今も昔も変わりないかと。
そうするとご縁とは不思議なもので、10年上のセンパイが山の業界では有名人だったりするわけです。
そして突然つながって親交が深まって、一昨年は神戸で行ったイベントにスペシャルゲストで来てもらいました。
今年11月には今度は僕がゲストで神戸でイベントをやるんですよ。
WM;
どんなイベントですか?
花谷さん;
11/11(土)に神戸の灘区民ホールにて、37回生の宮田八郎さん率いるハチプロダクション最新作「星々の記憶」上映とトークイベントがあります。そこに私もトークゲストとして出演します。開場は午後6時、開演6時半、上映(40分)の後、トークは午後7時半頃からの予定です。
なんと、このイベントの司会をされる、 ナディスト慈 憲一(うつみ けんいち)さんも37回生ですよ!
神戸高校OBOGの皆さま、ぜひお越しください。
WM;
神戸高校OB集結?のイベントですね。笑。
ところでは花谷さんは現在、「First Ascent」という会社の代表もされておられますね。
花谷さん;
First Ascentの意味は「初登攀・初登頂」。つまり前人未到だった山やルートに初めて登る、という意味です。これはなかなかできないことですし、なし得るためには情報収集や現場での行動計画、最後は山の天候やコンディション、一緒に登るパートナーなど、いろんなことが揃っていなければなりません。僕にとっては最も価値のある登山なのです。
だけどよく考えてみると、山にとって初登頂という考え方があるんだったら、人にとっての初登頂という考え方もあっていいはず。いままで何度も登られた山であっても、その人にとって初めての挑戦であれば、やはり緊張感も高いですし、成功した時の充実感も大きいです。同じFirst Ascentという言い方もできるのではないでしょうか。ガイドとしてそういう登山のお手伝いができたらいいなと思い、この屋号でスタートしました。
いまは法人化して株式会社になりましたが、同じ思いで会社の経営をしています。
4月からは山梨県北杜市にある、甲斐駒ヶ岳七丈小屋の指定管理者にもなりました。
これまでの山岳ガイドとしての活動だけでなく、山小屋の運営にも携わるようになりました。人口減少と高齢化が進む日本で、今後は地方が伸びていくためにも、「観光」という部分はとても大切になると思っています。山に囲まれた北杜市は、やはり山岳観光が一番の目玉となります。行政と連携してこの地域が日本の山岳観光をリードできるような環境づくりをしていきたいと思っています。
中学生の皆さん、 神戸高校に入ったらぜひ山岳部へ!
WM;
このHPは、現役神高生や卒業生だけでなく、「山岳部があるから神戸高校に入りたい!」と思っている中学生もご覧になっています。
花谷さんからこのHPをご覧のみなさまに、ひとこといただけますか。
花谷さん;
登山の経験が深まれば深まるほど、生きていく上での様々な知恵が身につくと思います。
情報収集・計画立案・リスクマネジメント・達成感・・・などなど、登山から導き出せるキーワードはたくさんあります。また若い時だけでなく、老若男女が楽しめるスポーツでもあります。神戸は日本の近代登山発祥の地でもありますし、街から近い場所に六甲山や摩耶山を従えていて、登山には好条件の立地だと言えます。
もちろん、しんどいことや危険なこともあるかと思いますが、それを克服することもまた登山の醍醐味だと思います。逆に言うとそれこそが登山の魅力ではないでしょうか。登山で味わう達成感や開放感は格別です。ぜひできるかぎり若いうちからその快感を味わってほしいなあと思います。
ということで、神戸高校に入ったらぜひ山岳部へ!