兵庫県立神戸高等学校同窓会

インタビューのコーナー

皆さん、こんにちは!
大好評のインタビューコーナー第23回は、京都で大人気のまぜ麺屋 「Japaneseまぜ麺 MARUTA」オーナー 若野祥大さん(55回生)です!
先輩の言葉で奮い立ちました
2017年2月12日放送 読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」での若野さん
-今回はお忙しいところインタビューをお引き受けいただき、ありがとうございます!
 地図で調べてきましたが..、本当にいい場所ですね!!(※取材場所は京都・丸太町通と河原町通の交差点に佇む、若野さんのお店でした)


ありがとうございます。いろいろなご縁で、こちらで開店させていただきました。
京都大学や同志社大学などは少し離れているのですが、近くに裁判所や法律事務所や病院等があるので、この近辺でお仕事をされておられる方によくご来店いただいています。近隣にお住いの方も良い方ばかりで、ここで開業してよかったと思います。

-若野さんと言えば、読売テレビの「大阪ほんわかテレビ」!
 “脱サラしてラーメン店を開業したイケメン”として取り上げられた時は、同期の皆さんもラグビー部の皆さんも大盛り上がりだったようですね(笑)。


はい。2017年2月12日放送の「大阪ほんわかテレビ」の"特別企画&大追跡スペシャル"で、一大決心をした人、みたいに取り上げていただきました。
開店当初から行列・満席ではありましたけれど、放送後は店の前にさらに長い行列ができるようになりました。
ありがたいことです。

2007年に、新卒で(株)リクルートに入社しました。
何かをしてみたいと志を持って入社したというよりは、リクルートで働いている人たちの人柄に惹かれて入りました。

リクルートでは、ブライダル事業、学び事業に従事していました。プラットホームの元祖のような会社で、消費者の利便性と企業の広告集客効果を高めることで広告費を頂く、その営業をしていました。

転勤で東京・広島・関西と経験したのですが、広島にいた頃にまぜ麺屋「おっくん堂」によく通っていたのが今の私のお店の原点となっています。オーナーご夫妻の人柄や、働く姿。そしてもちろん、その優しいまぜ麺の味に惚れ込み、広島から関西に戻るタイミングで、「自分もまぜ麺屋をやりたい」と、懇願しました。

とはいえ、私は飲食業未経験者。私や私の家族を心配して、オーナーの答えは「NO」(笑)。それでもゴールデンウィークやお盆、年末年始の長期休暇のたびに広島に行っては、お店を手伝い、「僕はやれますよ!」というアピールを続けました。2年ほどそんな状態が続いて、2015年末に師匠からようやくOKをいただき、開業できることになって、リクルートを退社しました。


-若野さんの熱意が認められたのですね!大きな企業を退社してまったく違う分野の事業を始める。勇気がいったことだったのではないですか。

リクルートで学ばせていただいたことは今でも役に立っています。
たとえば、マーケティングで、お店やお客様をできる限り客観的に見ながら商品やサービスを考えるようにしているのは、リクルート時代に培ったものです。

会社を辞めるときに、神戸高校の1年上のバスケ部キャプテン主森さん(54回生)にも相談しました。
主森さんも既にご自身で事業をされていました。三宮の鉄板焼きのお店に数回連れて行っていただき、いろいろと話を聞いていただきました。最後に「こういう相談されるけど、結局やらへん奴の方が多いかなー、それはそれで良いとも思うけどな。」と言われたことが、今でも鮮明に記憶に残っています。主森さんのやさしさで、こいつにはやらさへんほうがいいんちゃうかな、と思われていたのかもしれませんね(笑)。

でもそこもきっかけになって、「いや、俺はやるんや!」と奮い立ちました(笑)。

退社後半年ほど物件探しをしつつ、広島で修業をし、2016年12月に今のお店をスタートさせました。
 
サラリーマン時代と全く違う「疲労」も、好意的に捉えています
新校舎への建替えの影響で王子陸上競技場にて開催された体育大会にて(一番右が若野さん)
-神戸高校OB同士のつながりが、若野さんの挑戦の後押しとなったのですね。

そうですね。
開業したときだけではなくて、開業後も、神戸高校OBOGの皆さんにもいろいろな面で支えていただいているなと感じることが多々あります。店にもよく来ていただいています。

神戸高校OBで良かったなと感じるのは、そういった「人とのつながり」だけではありません。

以前、ある会社の人事部の方が、「採用の際、出身大学ではなく出身高校を見る」と仰っておられました。それを聞いた時に、神戸高校出身で良かったと思いました(笑)。
私自身も、神戸高校出身であるということで、下駄を履かせてもらっているような気がしています。

-お店を開かれてからについて教えていただけますか。
 神戸でもなく、大阪でもなく、京都にお店を開かれた理由も教えていただきたいです。


ひとつは、京都のブランド力や世界的な認知度ですね。
次に、「おっくん堂」で修業して学んだまぜ麺の”和風”の味が、京都と親和性があると感じたからです。
大阪や神戸での開店も検討しましたが、結局、京都でお店を開こうと決めました。

海外展開、店舗数増、通販などの商売を拡大させることになれば、やはり京都の方が可能性が広がりそうな気がしたからです。
..と言って、まだできていませんが。

今の仕事になってから大きく変わったのは、とにかく労働時間が長く、立ち仕事であることでしょうか。
サラリーマン時代とは、疲労の質が全く違います。

飲食業未経験だったこともあり、開業1年くらいは自分でも記憶がないくらい忙しくて(笑)。
妻が言うには、私は帰宅後リュックを背負ったまま寝ていたらしいです。
今も毎日体のどこかが痛いこともありますが、ラグビー部での経験のおかげか、痛みに対してもポジティブと言いますか、好意的に捉えています。
今はトライ&エラーを重ねながら週休2日にし、子どもとも過ごせるようになりましたし、連休をとって旅行にも行けるようになりました。以前よりは時間的余裕をもって働けていると思います。
顧問の先生からは、ラグビーというスポーツのすばらしさを教わりました
王子陸上競技場での体育大会にて②(前列紺色ユニフォーム左から2人目が若野さん)
-神戸高校時代はラグビー部に所属されておられた若野さん。どのような神高生活を送られていたのでしょうか。

母が神戸高校OG(若野俊子さん・旧姓藤江さん・25回生)、2歳年上の兄(若野耕大さん・53回生)も既に神戸高校に入っていたので、自分も漠然と、神戸高校に入るのかなと思っていました。中学校で野球部に所属していたので、高校入学後は野球部に仮入部しましたが、兄がいたラグビー部から熱烈な勧誘を受けたのでラグビーをやってみたら、その爽快感の虜になりました。
 
55回生のラグビー部はマネージャーを含めて6名でした。当時、キャプテンは上級生からの指名方式で決められていたのですが、私がキャプテンになりました。おそらく消去法で私になったのだろうと思います(笑)。

一番印象に残っているのは、高校3年生のときの秋の定期戦でしょうか。

試合前の円陣で、顧問の天知吾郎先生が「今日の試合のラストワンプレーで、(一年前に網膜剥離になりドクターストップで試合に出られなかった)相手キャプテンが出場するから、皆、そのつもりで。」と仰いました。兵庫高校は秋の花園予選は既に敗退していたので、兵庫の3年生にとってはその定期戦が引退試合でした。

試合は終始神戸優勢で進み、我々の勝利はほぼ決まっていました。
ラストワンプレーで兵庫高校のキャプテンが出場、グラウンドが沸きました。
神戸高校ボールのスクラムからこぼれたボールを兵庫の選手がとって、兵庫側がそれを繋ぎに繋ぎ、最後にトライをあげたのは、兵庫のキャプテンでした。

その直後、天知先生が全校生徒の前に出て大声で背景の説明をされました。「みんな、拍手を送ってあげてくれ」との先生の言葉に、観客席全体からの大きな拍手はやまず、僕らの最後の定期戦は幕を閉じました。

対戦相手への敬意、思いやり、背景に想像力を働かせる大切さ、賞賛...。ラグビーというスポーツのすばらしさを教えていただきました。

天知先生は普段、僕たちに自主性を求め、じっと睨むように見つめ、寡黙に指導される方でしたが、その先生が大声で説明したときの、ラガーマンとして、教育者としての姿や思いを想像すると、今も胸が熱くなります。

あの体験にラグビーのすべてが詰まっていると思います。

 
高校時代に同じ目標を追いかけた仲間たちは、一生の宝です
卒業前に、丸山公園にて部員全員でタッチフット大会(前列左から3人目が若野さん)

-定期戦でそんなドラマがあったとは!私も今お話を聞いて、じーんときています。
 野球少年だった若野さんが高校で初めて出会ったラグビーを通し、いろいろなことを体験し、学ばれたのですね。


そうですね。
もちろん、ほかにもいろいろな思い出がありますよ(笑)。


1年生の時、同期の金沢翼君が今日告白するという話を、誰かが先輩に言ってしまったのです。もちろんそんな話は部全体に一瞬で広まり(笑)、練習後ロマンス坂で彼が告白する一部始終をラグビー部全員が笑いをこらえて隠れて見守っていたのも思い出深いです。もちろんその告白は成功し、その後彼は青春を謳歌しました。

2年生の時の担任、英語科のM先生が話す英語のイントネーションが特徴的で、今でもよく覚えていますけれど、よくみんなでモノマネしていたのも懐かしいです。

卒業時の伝統のあの「見送り行事」(在校生が地獄坂に花道を作り卒業生を見送る)のときは、ラグビー部だけ部の先輩に水風船を投げつけるという小学生みたいなことをしていて(笑)、まったく関係のない女子の先輩に水風船があたってびちょびちょにしてしまい、大迷惑をおかけして、当然ですがあとで先生方にめちゃくちゃ怒られました。
言わずもがな、次年度から見送り行事での水風船は禁止になりました。

部活の成績優秀者が表彰されている中で、ラグビー部の当時のキャプテン阿部さん(54回生)が式典中に前に出て行って、一番格の高い井深杯を勝手に掲げてしまい、全校生が一瞬沸きました。が、それもつかの間、直後に体育科のF先生に耳をグーンっと引っ張られて、僕らのキャプテンは舞台裏に消えていきました。

由緒正しい伝統校としては許容されないことなのだろうとわかってはいますが、それでもラグビー部は笑いに貪欲と言いますか、皆さん体を張って場を盛り上げようとしていたのかなと思います。僕たちの代は少し控えめでしたが、先輩後輩の代は最高に面白かったです。気が付くと盛り上がっているのは自分たちだけ...?みたいなこともよくありましたが(笑)。

-面白い思い出話ばかりですね(笑)!!

食堂に関しても思い出があります。

当時はラグビー部の伝統で「1年生は学食利用禁止」でした。
1時間目が終わったら早弁して、お昼は学食に行けないので「べーや」(※バス道沿い、同窓会館の南向かいにあった「神戸屋」)に行って、「食堂で女子と一緒にランチ♪」に憧れながら、「べーやのおばちゃんとランチ♪」していました(笑)。

べーやでの時間は、ラグビーや進路、彼女の話をする、僕たちにとってはかけがえのない憩いの時間でした。

2年生になって初めて食べた学食、ラーメンというか中華そばは不思議な味で(笑)、でも好きでした。

中華そばとカツ丼を両方頼むという、ゲレンデみたいなメニューを食べていました。
ちなみに同期の丹下聡君曰く、兵庫高校の学食では「ラーメン」、神戸高校のものは「中華そば」だそうです。

定期戦の時の兵庫高校の学食のラーメンはラーメンらしい味で美味しかったです。

一つ一つは小さな話ですけれど、今でも同期で集まるたびに何かしらこういう高校時代のことを思い出しては、それをネタに酒を飲んでいます。
ラグビー部として全国大会出場の目標はかないませんでしたが、高校時代に一生懸命に同じ目標を追いかけた仲間たちは、一生の宝です。

早稲田大学ラグビー部「黄金時代」の中心でラグビーを謳歌しました
総体前、マネージャー加島さんが企画し集まった全校生徒からの激励の寄せ書き
-卒業後は早稲田大学スポーツ科学部に進学されましたね。

はい。
ほかの部活は夏に引退ですが、ラグビーは秋まであるので、暗記科目で勝負をかけました。
引退後11月~1月の間、予備校にこもって大学受験に備えました。

早稲田大学にはセンター試験利用方式で出願しました。暗記科目が得意だったので、傾斜の関係もあって、英語・化学・現代社会という絶妙な組み合わせで出願して、スポーツ科学部に合格しました。

-そして、大学でもラグビーを続けられたのですね。

はい、大学でもラグビー部に所属しました。

ちょうど清宮監督の下、早稲田大学のラグビー部の「黄金時代」と言われていたときでした。
多少の自信はあったものの大学トップレベルの中でどこまでできるか、期待と不安が入り混じる中での入部でしたが、「上には上がいる」と痛感しました。
いい刺激になったと思っています。

そしてこれも神戸高校ラグビー部の縁と言いますか、私が早稲田大学に入ってから、高校ラグビー部の先輩・高津さん(54回生)が既に入学していた北海道大学を辞めて私の1期下で早稲田大学の理工学部に入学。

さらに次の年には、先ほどもお話した高校ラグビー部同期の丹下聡君が関西外国語大学を辞め、私の2年下の後輩として早稲田大学スポーツ科学部に入学。2人ともラグビー部に入ってきました。

その下の学年には森雄大君、大川秀平君(共に57回生)もラグビー部に入部してきました。前後の学年で早稲田ラグビーに進む人が増えました。同時期に5人も所属していたのは、公立高校としては最多だったのではないかと思います。


-お二人は大学でもラグビーに打ち込む若野さんの姿を見て、ラグビーを続けるために早稲田大学に来られたのでしょうか。
 高校時代のラグビー部のつながりが、早稲田大学ラグビー部でも形を変えて続いていたのですね。


私の姿を見てかどうかはわかりませんが(笑)、高校での縁は大学に入っても続きました。

高津さんはあの五郎丸選手と同じ学年で、同じポジションでした。僕も同じポジションだったので、五郎丸選手が怪我で欠場した何試合かで、高津さんとポジションを争ったのもいい思い出です。

丹下君は、入学前にメールをくれました。
当時関西外国語大学に通っていた彼は、ラグビーへの夢を捨てきれずにいわゆる仮面浪人という形で大学を受験し、同志社大学と早稲田大学両方に合格したけれど、どちらに行こうか悩んでいました。「早稲田で一緒に試合出て、日本一になろうぜ!」ってやり取りをしたのを覚えています。とはいえ、大学では2期下でしたし、同じフィールドで大学日本一を決める公式戦のクライマックスに出ることはかないませんでしたが、学年やポジションは違えど、高校時代の仲間と大学でも意識し合いながら同じチームでラグビーに打ち込めたのは良い経験でした。

-大学卒業後、リクルートに入社されてからもラグビーを続けておられたのですか。

はい、私はクラブチームでラグビーを続けていました。

社会人2年目の日本選手権で早稲田大学と対戦しました。
当時4年生でメンバー入りしていた丹下君と試合する機会もあったのですが、残念なことに丹下君が怪我をしてしまって、対戦はかなわずでした。当時、先ほどお話した高校ラグビー部の顧問の天知先生が、神戸高校ラグビー部の広報紙で僕たちのことを書いてくれていたし、最後のチャンスやねんから痛いのを我慢して出てくれよと思った記憶があります(笑)。試合はぼろ負けでしたね。

大学在学中から卒業後数年間は、丹下君らと共に神戸高校ラグビー部の練習にも参加していました。
時代の変化やコロナ禍もあり、取り巻く環境は私たちのときとは大きく変わっているかもしれませんが、現役部員の皆さんには、目標を持ってラグビーを楽しんでもらいたいです。

-卒業後も神戸高校ラグビー部時代の皆さんとは交流はありますか。

ラグビー部はもちろんですが、野球部とサッカー部とは部室も近く、狭いグラウンドを共有し合ったということもあり、今も交流があります。毎年年末年始やお盆などの長期休暇の時に集まって、大阪や神戸で適当に飲んでいます。毎回参加するメンバーもいれば、人によって行けたり、行けなかったりですが。

私は開業してから余裕がなく、行っていないので、そろそろ参加してみんなに会いたいですね。

55回生は大きな同窓会も2回開きました。
大学を卒業して働き始めた時期の年末年始の飲み会で、「みんなどうしてるのかねー」という話から始まった企画でしたが、2008年当時まだFacebookをやっているメンバーも少なく、卒業アルバムの住所録から家にはがきを送って、返信がない場合は家に電話をかけて...みたいに準備をしました。

150~160人ほど集まりましたが、やるなら神戸地場のホテルやろ!というこだわりもあり、ポートピアホテルで一次会、三宮で二次会という感じで楽しい時間を過ごすことができました。

なにかやるときに、みんないろいろ好き勝手なことを言うのですが、実務面をほぼやってくれたのは同期の木下大輔君でした。言いたいことだけ言うメンバーを上手にまとめてくれました。

4年に一度やります!と宣言したものの、2012年の開催を最後にできていないので、また久しぶりにやりたいですね!

-同窓会事務局は、各学年の同窓会(同期会)開催をサポートさせていただくこともやっております。
 次回は神戸高校同窓会館のホールもぜひ!会場として選択肢に入れてご検討くださいね!(笑)


 
日常を楽しみ、そして一生懸命に何かに取り組んでほしいです
-面白いお話をたくさんありがとうございました。
 さて、最後になりましたが、神戸高校の後輩たちにメッセージを頂けますか。


私からお伝えしたいことは2点です。

「仲間との日常を楽しんでください」、そして「一生懸命になにかに取り組んでください」。

仲間のすばらしさは年を取るほど感じます。
大人になってからの、高校時代の仲間との時間はとても良い時間です。自分の店に友だちが来た時に、なんでもない思い出話をお互いの近況を話していると、現在の自分が昔の自分を眺めているような、とても不思議な気分になります。

今のままでいいので、友だちとどうでもいい話と、そしてたまに大切な話をしていてください。
それが大人になった時、あなたたちの宝になります。

そして、何かに熱狂して、一生懸命取り組む経験がとても大切だと思います。
どんなきっかけでも、なんでも良いです。私にとってはラグビー、浪人になることへの危機を感じながらの勉強、サラリーマン時代、そして今の仕事です。
夢中になった経験が、何か大きな決断の時の判断材料や後押しになります。
大好きなものを見つけて、情熱を燃やし、没頭してください。

-ありがとうございました!
 若野さんの今後のご活躍を、同窓生一同、応援しています!
≪若野祥大氏 プロフィール≫

住吉小学校→住吉中学校→神戸高校→早稲田大学スポーツ科学部

大学卒業後、株式会社リクルートに入社。

赴任先の広島で食べた「おっくん堂」のまぜ麺の虜になり、
リクルートを退社して2016年12月、京都に「Japanese まぜ麺 MARUTA」を開店。

京都の季節の旬野菜を使ったメニューは、数多のグルメ雑誌やブログで取り上げられている。

母は若野俊子さん(旧姓藤江さん・25回生)、
兄は若野耕大さん(53回生)、兄嫁は若野壽惠子さん(旧姓堀田さん・54回生)。