兵庫県立神戸高等学校同窓会

インタビューのコーナー

皆さん、こんにちは!
大好評のインタビューコーナー第24回は、両備ホールディングス株式会社 取締役常務執行役員 清水正人さん(29回生)です!
神戸高校創立125周年記念の新しい高校銘板をデザインしました
清水さんのスケッチ 45年前(昭和51年)の作品
-今回はお忙しいところインタビューをお引き受けいただき、ありがとうございます!
 KIITOの中には初めて入らせていただきました。趣のある建物ですね!(インタビュー場所は神戸市中央区のKIITO内オフィス)


はい。この建物は旧生糸検査所を改修した建物で、デザインやアートに関わる企業がオフィスを構えているほか、各種イベント等が開催されたりもしています。「生糸」の検査所だった建物なので「KIITO」と名付けられました。


私たちのオフィスはこの建物に2部屋お借りしています。私に固定席はありません(笑)。
最近はコロナの影響で在宅勤務を基本のスタイルにしています。計算してみると、現在は全デザイナーの8割ほどが在宅勤務のかたちをとっています。

コロナの影響という点で変わったことと言えば、外出できない期間が長かったので、私も久しぶりに家で鉛筆デッサンを描いて過ごしていました(笑)。


-今回神戸高校創立125周年記念事業として、神戸高校の銘板を同窓会から寄贈させていただきました。
 その銘板を清水さんがデザインしてくださいました。
 過日、同窓会公式Facebookで銘板設置について軽くご紹介した際、「あの清水さんがデザインをした銘板なのか!楽しみだ!」という反応が、続々と私の耳にも入りました。


今回のお話を同窓会から頂いた時は、正直なところ戸惑いもありました。
長く残るものですし、毎日学生の皆さんがその前を通ることになるものですので、なんだか申し訳ないような気がして...。でも、せっかく頂いた機会でもありましたので思い切ってお引き受けしました。

私自身が神戸高校に対して抱いてきたイメージというのは、やはり「伝統」や「格式」で、
地獄坂を登りきったところに見える正門やロンドン塔の印象も強く残っていましたから、
高校を訪れる人が最初に目にする光景と、登りきった先の格調の高い光景とが一致するような、それらと違和感のないものにしたいという思いは、お話をうかがった時からありました。

デザインに関しては、同窓会側から「こういう感じで...」というリクエストはなかったので、伝統的なデザインから、ちょっと「とがった」「攻めた」デザインまで、幅を広げていろいろなパターンの案を準備しました。

理事会で検討していただいた結果、あまりとがったデザインのものではなく、やはり伝統的な格式が高いデザインの方でいきたいとのご要望も多く、その方向で何度か描きなおしながら固めていきました。方向性が決まってからは、予想していたよりも順調に進んでいます。

...というのは表向きで、実際は、ペーパーモックの制作、全体のコーディネート、ディテールの指定、サイズの調整、備前焼プレート部分の仕上げ、石材選び、設置位置の指定と高さ調整、業者さんとのやり取りなど、大変でした...(笑)。


-設置される場所柄、ご近隣にお住いの皆さまや、神戸高校に入りたいと思っている中学生たちの目にも触れますものね。

 
早い段階で進路を決めて、早い段階で受験のための準備をスタートできたのは、大きかったです
当時は美術部に35名ほどの部員が(29回生卒業アルバムより)
-さて、早速ですが、清水さんの高校時代のお話からお聞かせいただけますでしょうか。
 美術部に所属されておられて、モテモテで大人気だったと伺いました。


(笑)。たしかに神戸高校では美術部に入っていましたが、モテモテだったというのは誤情報ですね。何かの間違いです(笑)。

中学校の時は軟式テニス部と美術部を掛け持ちしていましたが、小さい頃から絵が好きで、画家になりたいと思っていました。
でも家族から、「それは食べていくのに大変そうやから...」と言われていて、どうしたものかと考えて、ならばと探したのが、企業に勤めるデザイナーという仕事で、それならばいいのかなぁと漠然と考えていました。
でも、まだまだぼんやりとした憧れのような思いでしかありませんでした。

一方、「神戸に生まれた限りは神戸高校!」というような家庭内での空気もありましたし、自身もそのように思っていましたから、神戸高校を目指すことになりました。
高校入学後はテニス部に入部したのですが、3日で辞めました。あの地獄坂を走るのが嫌で嫌で。全くの根性なしでした(笑)。
そして美術部に入ることになるのですが、今から思えばこの時がそれ以降の岐路になっていて、ひとつの人生の選択だったと感じます。もし美術部に入っていなかったら、今回のお話もいただいていないと思います。



神戸高校に入学したら、まわりには勉強ができる方ばかり。
だからなお一層、自分はデザインの道で生きていくんだと思ったのかもしれません。自分の特長を生かすことを考えていました。

高校1年生の段階で、「将来はデザインの仕事に就く」と決め、高校2年生の初めから週に一度、学校が終わってから三宮にあるデッサン教室に通いました。そのデッサン教室は、神戸高校の美術部の顧問をしておられた平内先生のご紹介で通い始めたのですが、御影高校で美術を教えておられた中西先生がやっておられるアトリエでした。


-高校1年生の段階で進路を決め、2年生になってからそのための準備を始められたのですね。

はい。早い段階で進路を決めて、早い段階で受験のための準備をスタートできたのは良かったと思っています。

美術部は当時、3学年で35名ほどが所属していました。男子生徒も多かったです。びっくりですよね!そんな大所帯の美術部、今、あります?(笑)
今でも美術部時代の仲間と連絡をとったりしています。

美術部での思い出としては、夏に、日本海まで絵を描く合宿に連れて行っていただいたことが印象に残っています。2泊3日くらいでした。
平内先生は「型にはまらない」先生でしたので、創作活動では「何をしても良い」かんじでしたから、絵を描く人もいれば、何かを作る人もいたり、それぞれが自由にやっていました。その自由な空気が大好きで、私の進路を決める大きな要素になったと思っています。

私は鉛筆デッサンや油絵やポスターを描いていました。高校時代には7~80枚のデッサンを描きました。たしか文化祭では油絵を描いて展示したと思います。
今、手元に残っているのは油絵1点だけです。あとはデッサン教室で描いた9枚のデッサンだけが手元に残っています。残りは卒業時に神戸高校に置いたまま卒業しました。平内先生に「参考として置いておいてほしい。」と言われたので寄付したかたちですが、もう高校には残っていないでしょうね。

 
臨海学舎はカルチャーショックでした
左:江井での臨海学舎/右:清水さんがデザインした修学旅行のパンフレット表紙(卒業アルバムより)

―高校時代で印象に残っている行事などはありますか。

淡路島の江井での臨海学舎ですね!あれはカルチャーショックでした(笑)。だらしない自分としては驚きの体験として心に残っています。

遠泳も本気の取り組みでしたね。泳げない人はボートの上から応援していました。
今思えば、先生方も、卒業生のサポーターの皆さんも、その実施に大変なご苦労をされていたことと思います。

修学旅行は、私たちのときは鉢伏高原にスキーをしに行きました。
こんな近くに修学旅行?!と思いましたよ(笑)。
その案内パンフレットのデザインを担当させていただいたのも良い思い出です。

-印象に残っている授業などはありますか。

美術の授業が一番好きでした。それ以外で、好きな科目はなかったです(笑)。

当時私の前後の席のお二人がとても優秀な方で、私はダメダメで、英語の先生が歩きながら順番に質問していくときに、
私の前、私を飛ばして私の後、私の前、私の後ときて、簡単な質問の時に私に戻ってあてられる..みたいなことがありましたね(笑)。
屈辱でしたが、今思えば答えられない清水君への優しさだったのかもしれませんね(笑)。

大学は、京都市立芸術大学美術学部デザイン学科に進学しました。
入学後、プロダクトデザインを専攻し、自転車や電化製品、インテリア、雑貨のデザインについて学びました。
企業にいるデザイナーの在り方を考えて過ごした三洋時代
-その後、三洋電機株式会社に入社されました。高校1年生の時に決意した進路に進まれたのですね。

はい。高校1年生の時に決意したことはぶれることなく、大学卒業後は三洋電機にデザイナーとして入社しました。

デザイナーとして企業に入社したら、いろいろな家電のデザインができると思っていたのですが、そういうわけではなくて、配属された部署の製品をデザインし続けるということが多かったのです。私も25年ほど、テレビのデザインを担当しました。長いですよね...。

私が最初に配属されたのは岐阜で、そこの工場で作っているテレビのデザインをするというところからスタートしました。
デザイナーによって大阪配属だったり鳥取配属だったりしましたが、それぞれ配属された先でのデザインの仕事がメインになるので、横のつながりもほとんどなく、お互いに何をやっているのかわからないような状態でした。

そういう企業所属のデザイナー業界の在り方もなんとかしたいなとずっと思っていました。三洋電機がなくなる4~5年前でしたか、アドバンストデザインセンターのセンター長となりました。
この時はしんどかったけれど楽しかったですね。

デザインで三洋電機のイメージを変えたり、企業内デザイナーにとって課題と思っていたことを解決したり、それまで心のうちに秘めていたこと、考えていたことを、満を持して実現できた時期でした。いろいろと勉強になりました。


2007年には、三洋電機の中で花開いた事業のひとつである充電式電池eneloopの「くり返し使う生活」をベースにした充電プロダクトの「エネループユニバース」で、グッドデザイン大賞を受賞しました。会社全体が元気のない時期でしたから、外から客観的に評価されたことで、この時、社員の士気も少し上がった気がしました。

「デザインで会社の仲間が元気になる。」という経験は、デザインを生業にしてきて良かった!と思える瞬間でした。


-グッドデザイン大賞!赤いGマークのものですね!

グッドデザイン賞には、いくつかの部門があります。

各部門の金賞を受賞した企業や人のプレゼンテーションが行われて、会場にいる方々の投票で大賞が決まりました。プレゼン時間は約5分間でした。
私たちが大賞をいただいた2007年には、「商品デザイン部門」、「建築・環境デザイン部門」、「コミュニケーションデザイン部門」、「新領域デザイン部門」等があって、任天堂さんのWii、JRさんの新幹線N700系、本田技研さんの小型ジェット機、イトーキさんのオフィスチェア等が金賞に選ばれていました。

最後はWiiと決戦投票になって、結果、大賞をいただくことになりました。

その後、53歳の時に三洋電機がパナソニックに統合されることになり、それから2年間、パナソニックの電池事業の中で企画・デザインをしていました。

 
「社員全員がデザイナー」という意識で仕事をしていきたい
ドリームスリーパー内部 中は完全個室空間
その後、ご縁があって55歳で両備ホールディングスに入り、デザインをしています。

「これからの時代、事業の全てにおいてクリエイティブ視点が大切だ!」との思いなど、現在の松田社長の思いと私の思いが一致するところも多く、新設の部署として両備グループのクリエイティブサポート部をつくっていただきました。グループ内外の様々な事業のコンセプト、ネーミング、ロゴ、コミュニケーションツール、インテリア、建物...広い範囲でのクリエイティブに関わるデザインを創り出しています。経営戦略の中にクリエイティブ視点を位置づけるという素晴らしい環境だと考えています。

これまで三洋やパナソニックで培ってきたことを活かしてデザインに携わる傍ら、「デザイン」という仕事について社内外でお話しさせていただく機会も増えました。


ちなみに、「デザイナーとはどういうことをする人?」と聞かれたらどう答えられますか?

-商品の色や形を立案する人、でしょうか?

そうですね。「モノの色や、モノの形を考える人。ポスターを描く人。」と答える人が多いと思います。

これまで、「デザイン」という言葉の定義がすごく狭かったと考えています。
今、「様々な情報を集め、考え、かたち創る人。」それこそが「デザイナー」だという捉え方が正しいと考えています。

たとえばソーシャル・デザイン、つまり社会全体を良くしていくことを考え実践していく。これもデザインです。
目に見えないサービスをいかに良くしていくか、いかに利用者に長く愛してもらって使ってもらえるか、それを考えるのもサービス・デザインという、デザインです。
もっと言うと、今こうしてインタビューにお越しになられて、私がお話したことをあなたが別の形に変えて発信する、これもコミュニケーション・デザインと言えます。

モノのカタチやイロを考える、あるいは何かを描くことだけがデザインなのではなくて、事業全体をかたち創ることも含めて、様々な視点でデザインと呼べる仕事がいっぱいあります。

そういう意味で、両備ホールディングスでは、「社員全員がデザイナー」という位置づけで仕事をしていこうとお伝えしています。社員全員の発想をもっともっとクリエイティブにとらえて、新しいモノやコトを一緒に考えて創り出していきましょうと。

会社では「上の人がこう言ったからこうする」みたいなトップダウンのことがたくさんあると思います。でも、上が間違った判断をしたら会社全体の失敗になるし、上の人たちが元気なくなったら会社全体の士気が下がります。だからこそ、自分たちがそれぞれどう思ってどう動くのか、そこを意識することで、会社も大きく元気に変わるのではないかなと考えています。


-トップ→ダウンもあるけれどもボトム→アップもある、両方がうまくかみ合ってこそ元気な会社になるということですね。
 デザインの仕事のとらえ方についてもおっしゃる通りだなと思います。


自分が最初に考えてたことをストレートに世の中に出していけたらいいですよね。それによって世の中の反応も正確に、ストレートに感じることができますし、その反応を次の仕事に活かすことができるからです。


モノやサービスを購入するときに、「〇〇が作っているものだから買う」と会社名で判断する方ももちろんいらっしゃるでしょうが、本当に良い商品であれば会社名を前面に打ち出したロゴなり戦略なりを考えなくても受け入れられると思います。

その商品が良いから買う、その結果、、気が付けば「〇〇の商品だった!」でいいと考えています。そういうブランドづくりを目指しています。


-清水さんがデザインの仕事に取り掛かる際に大切にされていることはありますか。

まず、本質を追求すること。本来求められていることは何かを考えること。視点を変えてみること。
次に、振り切ること。突き抜けること。これまでやってこなかったことでもやってみること。諦めないこと。
そして、領域を超えること。縛られないこと。

例えば、私たちは両備でドリームスリーパーという高速乗合バス(夜行バス)のデザインをしました。

このドリームスリーパーは、「バスを新幹線や飛行機の世界へ」「バスをホテルの世界へ」という意識で取り組んだ、まったく新しい発想で開発された高速乗合バスで、完全個室で11席しかないバスです。2016年にグッドデザイン賞を受賞しました。

バスという領域を超え、良質な睡眠をとることができる、リラックスして移動することができる、バスの領域を超えたこだわりの設備を備えた新時代の乗り物です。当時、「夜行バスの中に個室的な空間を作る目的では扉をつけてはいけない」みたいな定説がまことしやかに流れていたのですが、本当に扉をつけたらダメなんですか?というところから開発は始まりました。

グッドデザイン賞を受賞したこともあって、翌年には「ミヤネ屋」や「ビビット」「ちちんぷいぷい」「みんなのニュース」等、いろいろなメディアでも取り上げていただきました。
 
自分でよく考え、周りとよく話し、行動に起こす。この繰り返しによりあなた自身が形成されます
清水さん(左)と平内先生(右)
-最後になりましたが、後輩たちにひとこといただけますか。

これは新入社員の皆さんにもお話しすることでもあるのですが、若い人たちすべてに通ずることかなと思うのでご紹介します。

まずは自分で考えることを大切にしましょう。
そしてそれを仲間なり、上司なり、周りの人にも話しましょう。
そして、行動しましょう。

考え、話し、行動するプロセスを経て、自分自身が創り上げられると思うのです。
ひとつのことだけではなくて、いろいろなことそれぞれでこのプロセスを積み重ねていくことにより、自分の価値観とか生き方とかに繋がっていくように考えています。上司に言われたからそれをするというだけではなくて、もちろん上司を信じることも大切ですけれども、やはり自分自身でよく考えることが大切だと思います。

高校3年間というのは、自分の人生において大切なベースとなります。
自分がこの先何をやっていこうとするのか。何になりたいと思っているのか。早いうちに見つけられたらいいですよね。

先生や仲間とのめぐり逢いも大切にしてほしいです。
私の場合、中学校の美術部の顧問の先生、神戸高校で美術部の平内先生と出会ったことがのちの人生に大きな影響を与えていただけたと思っています。

 
-ありがとうございました!
 高校の新しい銘板を目にするたびに、今日清水さんから伺ったお話を思い出します。
 今回はデザインから設置完了まで一貫してお世話になり、感謝しております。
 清水さんの今後ますますのご活躍を、卒業生一同お祈りししています!
≪清水正人氏 プロフィール≫
ドリームスリーパーと清水さん

楠中学校→神戸高校→京都市立芸術大学 卒業

三洋電機株式会社入社後パナソニック株式会社を経て
現在 両備ホールディングス株式会社 取締役常務執行役員

【あとがき】
神戸高校創立125周年を記念して、今秋、同窓会より高校に寄付した銘板(清水さんデザイン)

清水さんがデザインしてくださった新しい銘板は、10月16日(土)の除幕式にてお披露目し、神戸高校に寄贈させていただきました。

125周年記念として同窓会から高校に銘板を寄贈できましたのは、デザインしてくださった清水さんはもちろんのこと、
土台の芝生を綺麗に施工してくださった
株式会社ウエシンの松田真哉さん(46回生)、
そして
同窓会員皆様からのあたたかいご寄付のおかげです。

同窓会は今後もいろいろなかたちで神戸高校の後援を続けてまいりますので、
引き続き皆様のご協力を賜れますと幸甚に存じます。