「トロフィーのチカラ」プロジェクト
トロフィーを手にする藤井さん(毛利マーク店舗にて)
-このたびはお忙しいところ、インタビューをお引き受けいただきまして、ありがとうございます!
現在神戸高校生が身につけている校章・胸章は、御社が作成してくださっているのですね。
はい、そうです。
毛利マークは創業1914年、今年で107年目になります。
神戸高校生の校章や胸章だけでなく、水泳部「神泳会」の部旗も作りました。
水泳部の部旗は、水泳部OB会からのご注文でした。現役の生徒さんが書かれた文字を使ってほしいということでした。
―創業107年。まずは御社の歴史を少しお聞かせいただけますか。
初代岩太郎は愛知県出身で、愛知からこの神戸にやってきました。
1924年に岐阜から大西保一を迎え、保一が養子となり、のちに2代目として毛利マークを継ぎました。
そのあと保一の長男だった雅博が3代目、雅博の妹としこの婿である二三夫が4代目として継ぎ、現在、二三夫の長女の婿である私が5代目になります。
-たしか昔、御影高校の向かいのビルの1階にも「毛利マーク」というお店があったような・・。
よくご存じですね!あれは「のれん分け」のような形で、先代の二三夫が出していたお店です。
阪神大震災の後、先々代が病気で亡くなったのを機に、「みかげ毛利マーク」はたたみました。
毛利マークはトロフィーやバッジ、優勝カップ、旗の作成をはじめとして、のぼりや横断幕、表彰状、造花を用いたリースやブーケなどのご用命も承っています。
-過日、新聞で毛利マークさんの「トロフィーのチカラ プロジェクト」について知りました。
コロナでいろいろな大会がことごとく中止になり、トロフィーの出番が減ってしまったこともあり、売り上げも3割~4割減りました。
倉庫を手放して、在庫の整理をしようかということになり、毛利マークの若手メンバー(私と妻、妻の妹の夫)が中心となって整理をしてみたら、どうしようもないくらいのトロフィーが出てきたんです(笑)。
古いから売り物にはならない。さて、これらのトロフィーをどうしようかと考えました。
ちょうどその頃、娘の学校で、先生が学年内対抗三種目のイベントを企画してくださいました。
娘はちょうど、コロナのせいで「卒業式」も「入学式」も縮小され、本当に質素に学校生活をスタートさせた学年です。
入学後の野外活動なども、ことごとく中止になっていました。
そのイベントで、娘のクラスが2種目で優勝し、「トロフィーをもらった!」と。
普段このお店にもよく遊びに来ているので、”売り物”としてのトロフィーは見慣れているはずだけれど、自分たちがやったことに対して自分たちの手で獲ったトロフィーは、それとは違ったものだったのでしょう。そのトロフィーは毛利マークで制作したものではありませんでしたが(笑)、娘の喜ぶ姿を見て、「トロフィーには子どもたちをこんな顔にするチカラがあるのだな」とあらためて思ったんです。
コロナの前でも学校からトロフィーをご用命いただくことがたくさんありましたが、学校の予算ってきつきつみたいで。
クラスを盛り上げたいという思いで、自腹でトロフィーを購入される先生も以前からいらっしゃいました。
それらのいろいろなことがリンクして、「ニーズがあるなら、これらの売れない在庫を、子どもたちの活躍の場に使っていただこう」と思いました。
普段の納品ではこちらが学校や団体に出向いていくことがほとんどですが、今回は毛利マークという店を知っていただく機会となるように、必要な団体にはお店までトロフィーを取りに来ていただくことにしました。
-素敵な取り組みですね。実際にお店に受け取りに来られた皆さんの反応は。
複数のトロフィーをお見せして、「この中からお選びください」とご案内したのですが、みなさん、まるで自分たちのものを探しているかのように目をキラキラさせておられたのがとても印象的でした。渡したときの子どもたちの反応を想像して、ウキウキされているようでした。
普段こちらの仕事で教育現場を訪問する際は先生方もお忙しそうですが、お店に来られた先生方のそういった一面を見ることができて本当に嬉しかったです。
また、名札を納品している学校では私は「名札の人」、胸章等を納品しているところでは「バッジの人」と記憶されていると思うのですが、名札や胸章以外にもいろいろやっているんですよということを知っていただけたのも良かったと思っています。
当初このプロジェクトでトロフィーをお渡しするのは「神戸市内のスクール」とさせていただいていたのですが、結果的には三田市とか、サッカーチームとかそういうところからも依頼がありました。
-トロフィーや盾が子どもたちに与える喜びやモチベーションは、はかりしれないですよね。
このプロジェクトがきっかけとなって、よりたくさんの機会、場所で、御社のトロフィーが活躍するといいですね。
世界中どこにいても心はずっと”神戸っ子”が増えたらいいな
Street Tableでの公開配信
―ところで藤井さんはラジオでも番組をされているとか!
単純にラジオが好きで。中学生の時からよく聴いていました。
「stand.fm」というアプリがありまして、それで平日朝8:30~9:00、開店前の30分を利用していろいろ話しています。
2010年から2019年、「こうべイクメンプロジェクト」のPRでラジオ関西の番組に出演させていただいたことがありました。
今はYouTubeとかSNS、ブログなど、さまざまな媒体があるけれども、「やっぱりラジオが一番楽しい!」と再認識しました。
当時は手を広げていろいろな活動をしていたこともあって、自分のやりたいことを少し整理しなくてはならないなと思っていたところでした。
2019年にツイキャスというところで「神戸っ子あっちゃんの自分さがしラジオ」を始めました。自分で話しながら、自分がやっていること、やりたいことを整理していく感覚でした。
371回配信したあと、昨年末にツイキャスをいったんお休みしました。もう、自分探しは終了かな~と(笑)。
ちょうどその頃「Clubhouse」というアプリがブームになっていたのですが、そこで知り合った方から、「stand.fmっていうのがあるよ」と教えていただいて。ラジオ関西のパーソナリティの天宮さんにも背中を押され、stand.fmでの配信を開始しました。
今やっている番組「KOBE LOVERs Station」では、もう私の自分探しの内容ではなくて、神戸愛をいろいろな角度で話すことがメインです。「リスナーの背中をチョコン!と押すような」、そういうお話を意識しています。
―本当にいろいろな活動をされているのですね!
どの活動でも、藤井さんの神戸愛を感じます。
神戸高校卒業後、大阪の大学に入って、大学には神戸の実家から通っていたのですが、
大阪の企業に入社したのを機に大阪府八尾市に引っ越しました。
社会人1年目に結婚しました。ちなみに妻も神戸高校48回生、ブラスバンドOGです。
あるとき、仕事が激務で体調をくずしたことをきっかけに、この先このままでいいのかなと考えたんです。
妻の実家は三宮でお店をしている。妻は三姉妹だからお店の後継者がいないということは知っていましたので、入社したいと私から妻の父に相談をしたら、歓迎してもらえました。
毛利マークに入社するのを機に、大阪から神戸に戻ってきました。
戻ってきてすぐくらいでしたか、当時新型インフルエンザなどで神戸がちょっとネガティヴな雰囲気に包まれている時期でした。神戸が大好きな私ですから、漠然と「何かしたいな」と思っていました。
神戸の人って、”神戸愛”が強い人が多いですよね。神戸愛が強すぎて、「神戸がこうなったらいいのに」と考える人よりも、「”私なら”神戸をこうする!」という人が多い気がします(笑)。
阪神タイガースのファンが全員”監督”化するのと同じような感じでしょうか(笑)。
神戸から他市、他県への人口流出を嘆く声もありますけれど、出ていった人を責めるのではなくて、いつでも「おかえり!」と腕を広げてあたたかく迎え入れられる、一度神戸を出ていった人たちが安心して帰ってこられる、そういう場所でありたいですね。
世界中どこにいても、「心はずっと、”神戸っ子”」が素敵だなと思います。
―神戸高校OBで良かった!と思われることはありますか。
普段、自分から「神戸高校OBです」と言うことはありません。
聞かれたら言う、というスタンスですが、神戸にいますし、神戸高校OBOGと出会う確率は高いです。
一度同窓だとわかったら、仲間意識も生まれますし、親近感は沸きますね。
パパたちだけが「イクメン」ではない
こうべイクメンプロジェクトで作った「BE KOBE」の人文字
-先ほど少しお話に出た、「こうべイクメンプロジェクト」についても教えてください。
「こうべイクメンプロジェクト」は2010年に始動しました。
私は発起人として、実行委員会の実行委員長をしています。
きっかけは三女が生まれたことでした。
仕事をいつもより1時間早く切り上げて上の二人の保育園の送迎をしていましたが、言葉で言うと簡単ですけれど、仕事を早く切り上げて急いで帰宅し、自転車に乗り換えて保育園に向かう..この日常の繰り返しは、想像以上に大変でした。
海外には男性が育児休暇をとることがごく一般的な国もありますが、日本はまだまだ。
パパが保育園の送迎をしていたら、周りのママたちからの視線が気になるという声も聞いたので、男性も育児に積極的に関わることを推進できたらいいなと思っていました。
子育ては大変だから、労われたり、ほめられたりすることが明日への原動力になります。
毛利マークの商品、トロフィーや盾などは、頑張った人を「ほめる」「たたえる」ときに使っていただくものです。
そこで、毛利マークだからこそできる形として「こうべイクメン大賞」を実施しようとひらめいて、2010年2月に始動しました。
-お名刺の裏側にも、「毛利マークはほめる文化を推進します」と書かれていますね!
2010年6月の父の日に、三宮のセンター街で最初のイベントを開催しました。
イクメンにまつわるエピソードを全国から集めて、応募者全員141名を「こうべイクメン」に認定、表彰しました。
ちょうどこの年に育児介護休業法という法律も施行されたこともあって、
「イクメン」という言葉が流行語大賞にノミネートされたり、全国各地でいろいろなイクメン大賞やプロジェクトが始まりました。
「こうべイクメン大賞」はまさに、そのさきがけだったんですよ。
「イクメン」が一気に日本中で浸透したものの、「イクメン」はパパだけをさすように思われがちだったのがひっかかっていました。それだと子どものいない家庭や、母子家庭には関係ないように聞こえてしまう。
自分の子どもだけでなく、地域の子どもたちの成長を支えている人も、男性女性問わず立派な「イクメン」だと私は考えて、「こうべイクメン=育児にかかわるすべての男性」と定義し、父親以外のエピソードも送ってもらいました。
毎年この日(父の日)が一つのきっかけになって、よりたくさんの大人と子どもたちがコミットする社会になれば、神戸の街ももっともっと良くなる気がしています。
教室にいるより講堂にいる時間の方が長かった神戸高校時代
トランペットを演奏する藤井さん ©Ohana
―神戸高校時代のお話をお聞かせいただけますか。
鶴甲小学校、長峰中学校と進学してきて、ごく自然に神戸高校を受験しました。
今でこそ変わりましたが、当時は学区の縛りもありましたし、今ほど選択肢がなかったので、ごく自然に神戸高校に(笑)。
高校では運動部も考えましたが、結局ブラスバンドに入りトランペットを続けました。
朝練、早弁、昼練、放課後練に明け暮れた3年間でした。
ずっとブラバン。教室にいるより講堂にいる時間のほうが長かった(笑)。
高校1年生の時は夏のコンクールのメンバーではありませんでした。
2年生の時に部長になりました。
習い事(英語)のプロジェクトで夏休みに1か月アメリカにホームステイに行っていたので、コンクールには出られませんでした。この年、部としては関西大会どまりでした。全国大会に駒を進めていたら、秋にあるので私も出られたかもしれないのですが。
3年生になって、満を持してコンクールに出場しました。
前年の結果でシード権があったので気持ち的には余裕があったのでしょう、私史上最高の演奏ができた!と思ったのがこの年の地区大会でした。
過酷な日々でした。ずっと練習しているんですから。
今思えば、ずっと練習するもんじゃないです(笑)。適宜休憩もとらないといけませんよね。
でも当時は本当にずっと練習に明け暮れていました。
そしてペース配分が下手だったと思います。
地区大会のあと、次に次にと勝ち上がっていくにつれて、どんどん自分の演奏がダメになっていくのがわかりました。
県大会に出場する前に合宿がありました。
当時明石北高校の顧問をされていたOBの先輩がお越しくださってめちゃくちゃ褒めてくださったので、それでまた調子が出ましたけれども、その後もテンションのペース配分を間違えて(笑)。結局関西大会まで進みましたけれど、私自身としては少し悔いの残る演奏でした。
私が2年生の時に阪神大震災がありました。
大きな揺れを感じて、時計や置物が落ちてきましたが、私の家は地盤がしっかりしていたエリアにあったので、家族は全員無事でしたし、建物も無事でした。ライフラインも比較的早く復旧したので、早い段階からテレビをつけることができたのですが、そのときはじめて震災の被害の大きさを知り、言葉を失いました。
JR灘駅近くに住んでいた祖母の家に救出に向かうと、祖母の家は傾いていました。祖母も叔母も無事でしたが、のちに祖母の家は近所からの出火で全焼。祖母と叔母と私の家族、7人での生活が始まりました。
しばらくは学校再開のめどが立たなかったので、自転車で友人や後輩たちの安否確認をしてまわりました。
学校が再開したのは年度末の3月頃でしたが、そこで先生や神戸高校生も数人犠牲になったことを知りました。
私たちが入学する以前は、OB会主催の定期演奏会に現役が出演させてもらうというスタイルだったようですが、
私が高校1年のときにどういう経緯か、現役主催の定期演奏会にOBが賛助出演するというスタイルに変わりました。
現役主催の第2回定期演奏会を3月にうはらホールで開催予定だったのですが、もちろん中止になったので、演奏の機会を奪われました。
声をかけて、有志を集めて、灘区内の学校で慰問演奏をスタートさせました。
体育館は避難所でしたから、校庭で演奏しました。
ブラバンには部室がなかったし、震災後は講堂も使えなかったので、物理の教室を借りて練習をしていました。
きちんと事前に申請していたのですが、物理の先生がガラガラっと扉を開けて入ってきて、「お前ら、ここでなにやってんねん!」と怒られたのも覚えています(笑)。
-ブラスバンドでの活動に全力を尽くした3年間ですね。
阪神大震災で被災しても演奏することを続け、区内各地の被災者に元気を届けた。まさに「音楽のチカラ」ですね。
高校の顧問の村上先生は「お金は出すけれど口は出さない」というような先生でした。
私たちの頃は、顧問の先生が指揮をすることはなく、OBOGの先輩が指揮を振りに来てくださっていました。
江井の臨海学舎の後でしたか、ご自宅に呼んでいただき、話を聞いてくださったりジュースを出してくださったのを覚えています。
無条件に、「君たちならできる!」と褒めて、鼓舞してくださる先生でしたね。
まるで漫画「スラムダンク」の安西先生のような(笑)。
阪神大震災で亡くなられた生物の岡田先生がとても美声だったのも覚えています。
いい声過ぎて、授業はとても眠かったですけれどね(笑)。
大学進学後は軽音部に入りトランペットを続けました。
今もトランペットを嗜んでいます。
疲れもふっとびますし、元気がチャージされる気がします。
トランペットは息を使いますから、それも関係あるのかも?(笑)
迷わず、全部やってみたらいい
―最後になりましたが、後輩たちにメッセージを頂けますか。
「好きにしたらいいんだよ!」と言いたいですね。
今思うと私自身、好きなようにさせていただいてきました。
17歳、18歳って、一番いい時期ですからね。迷わず、全部やったらいいと思います。
-長い時間ありがとうございました!
藤井さんの今後ますますのご活躍を、卒業生一同応援しています!