兵庫県立神戸高等学校同窓会

インタビューのコーナー

大好評のインタビューコーナー第28回は、機山洋酒工業株式会社 土屋由香里さん(37回生)です!
37回生はSNSを活用した交流を重ねています
機山ワイナリーの蔵の中
-今回はお時間をいただきましてありがとうございます!

今回このインタビューのお話をいただいて、いろいろちゃんと話さなきゃと、ブラッシュアップしてきました。
年月日とか、いい加減ではいけませんよね。
関西のおばさんって最後に「知らんけど」って付けるから、それでいいのかしら(笑)

知らんけど。」たくさん使ってください!(
 早速ですが、土屋さんは37回生ですよね。37回生の皆さんは、卒業後も集まっておられますか。

去年の11月に、37回生の同期会を同窓会館で開きました。
そのときの資料をちょっと探してみたのですがすぐに見つけられなかったので、過去の同窓会誌の寄稿をご参照ください。
37回生の大角謙二さんという方、現在赤穂高校の校長先生をしていますけれど、彼が寄稿しています。

就職してから長い間は高校の同窓会に目が向かないものですよね。
みんな仕事や結婚、育児等でなかなか高校の同窓会まで意識がいかないのでしょう。
でも37回生はコロナ前までは5年に一度くらい同期会をしていました。直近の同期会は先ほど言ったように2023年11月に開催し、学年主任の石川先生、高木ジツコ先生もご出席くださいました。

それ以外には在東京メンバーが中心となって、10年くらい前から37回生のLINEグループができました。
みんな年代的にこどもに手がかからなくなってきたので、女子も「37回生ハイキング部」なんて作ったりして、神戸や東京やらで集まることも多いようです。

当ワイナリーは塩山にありますが、この山の上にハイキングルートがあったり、そのむこうには登山の初心者にもなじみがある金峯山もあったりするので、37回生ハイキング部メンバーが時々こちらにも来てワイナリーに立ち寄ってくれるんですよ。

ーSNSの発達に伴い、情報共有も容易になりましたものね。

そうですね。LINEの普及は大きいですね。
何年か前まで神戸高校で体育を教えていた鍋野さん、彼は高校時代は野球部だったのですが、彼から、「今日は創立記念日!」「今日は体育大会!」みたいな情報が流れてきたり。
たとえばLINE グループで「今阪神の試合に来ている」というメッセージに、別のメンバーが「俺その反対側にいるよ!」みたいなやりとりがあったり。そのやりとりを見せられている私たち。(笑)
寝ても覚めても合唱、の中で「文化委員長」に就任
ワイナリーの中を案内してくださる土屋さん(3月撮影)
-既土屋さんの楽しそうな同期の皆様のお話をお聞きしていますが(笑)、それではこここで、神戸高校に入る前の頃に遡ってお話をお聞かせいただけますか。

美野丘小学校から長峰中学校に進みました。
神戸は坂道の多いところですが、美野丘小学校も長峰中学校も神戸の中でもとりわけ急な山の上にある学校です。
神戸高校の地獄坂は有名ですが、長峰中学校出身者にしてみたら、さほど地獄ではありませんでしたよ。(笑)

当ワイナリーも実は駅からずっと坂道が続いたところにありますが、ゆるやかな坂道です。
神戸のように、海!山!というような地形は珍しいですよね。
やっぱり今も、神戸が大好きです。

中学校では合唱部に所属していました。
父も母も合唱部で、合唱繋がりで結婚した二人でしたし、歌うことが好きな一家なんでしょうかね(笑)。

中学校のときには、合唱はしていましたがどちらかというと勉強に比重がおかれていたかと思います。
岡本にあったスパルタ系の塾に通っていて、そこには他の中学校からもたくさん来ていたので、神戸高校入学後も友だちはたくさんいました。

ーその後神戸高校に入学されました。

高校時代も合唱部に所属しました。
私たちの上下の学年も含めて、合唱部がとても強かった時代です。3学年で50人近い部員がいたと思います。

寝ても覚めても合唱、という高校生活でしたね。
とりあえず学校に行って、早弁して、昼練して、勉強して、午後練して...まるで部活のためだけに学校に行っていたような3年間でした。文化部ですけれど運動部のような部活でしたからね。
私たちの時は「神戸高校は4年制」といわれていて(笑)、3年間は一生懸命部活に打ち込んで、1年浪人して進学する人も多かったです。
部活動を引退してから、「勉強しなくては!」と急いで勉強にとりかかる感じでした。

私たちが1年生の時の35回生自治会長が、現在政治家としてご活躍されている和田有一朗さんという方でした。
当時から志の高い方で勢いがあったので、入学したての私たちは和田さんを見て「神戸高校の自治会ってこんな感じなんだ...」と驚いたり、圧倒されたり。
だからでしょうか、36回生の自治会長も立候補がなかったんです。和田さんのようにはできない、とみんな思っていたんでしょうね。
その流れで私たちの37回生も、「自治会長、誰がやるの?」という空気でした(笑)。
あなたが自治会長をやるなら支えるから!というように何人かで話をして、ようやく一人、坂本修一くんという子が立候補しました。彼から声をかけていただき私は文化委員長を引き受けることになりました。

部活動で精一杯のときに、自治会活動が加わったもので、とても忙しい高校生活でしたね。
自治会室に住んでいるのかなと思うくらい、自治会室に入り浸っていました。当時あった東神戸高校との兼ね合いで18時になったら帰宅しないとだめだったのに、文化祭の前とかは自治会室だけはおとがめなしでしたから特別感がありました(笑)。先生方も肉まんやラーメンを差し入れに持ってきてくださったりしました。
風紀委員長をやっていた小塙さんは、今もこのワイナリーにしょっちゅう遊びに来てくれますよ。


振り返ると部活動を全うしたとは言えないかな...と思うところも少しはあります。
というのも、私たちの前後の学年は合唱部で全国大会に行けたのですが、私たちの学年は行けなかったものですから、同期には「影山(土屋さんの旧姓)が自治会活動も頑張りすぎて、部活動に専念していなかったから(全国大会に行けなかった)」「もっと一丸となれていたら全国大会に行けたのに」と思っていた人たちもいたのではと思います。


2学年上の35回生に、去年まで神戸高校で教えていらして、合唱部の顧問もされていた林香世先生がいらっしゃいました。同じアルトでした。
林先輩には大変お世話になりましたので、神戸高校合唱部が全国大会に行くと聞けば寄付をし、エアコンを設置すると聞けば寄付をし...あの頃自治会活動との掛け持ちで合唱部だけに尽力できなかった申し訳なさもあって(笑)、大人になってすこしずつお力にならせていただいております。

二足のわらじを履いたために合唱部にも迷惑をかけたかもしれないという意味で、苦い思い出ももちろんあるのですけれども、個人的にはやりたいことを全部やりきった、充実した3年間を過ごせました。
本当に忙しくしていたので、同期から見た私の印象は、「いつも走っている人」だったそうです。(笑)
私は冬服の袖をいつも腕まくりしていたので、同じことをしていた後輩たちは先生から「そんな、影山みたいなことをするな」と注意されていたそうです。(笑)



文化委員長として経験された園遊会のお話をお聞かせいただけますか。

「きちんとしなさい」というような校風だったので、他の高校の文化祭のようなはっちゃけた要素は皆無の文化祭でしたね。
園遊会に限らず、学校生活全般において「きちんとしなくてはならない」という風潮がありました。
たとえば当時の家庭科の先生はとても怖くて、調理実習で使ったシンクをピカピカにしていないじゃないの、と生徒を呼び出すことがありました。それでもきちんと言うことを聞いてシンクをピカピカにするところが神戸高校生(笑)。先生方にとっても神戸高校は理想的な教育の場というか、やりやすかったのではと思います。15歳16歳で「きちんとする」ということを教え込まれたのも、今となっては大切だったんだなとわかりますね。

高校の卒業式は大学入試の前でしたので、心ここにあらずで出席しました。
卒業式のときにはじめて「鵬」として正門を通ることができるという決まりがありましたけれども、卒業式の時の記憶はあまりなくて、
大学の合格発表後に登校するときに正門から学校に入ったときの方が印象深かったです。

神戸高校に行ってよかったと思うことのひとつは、いろいろな分野に優秀な知り合いがいます。
同期でなくても繋がります。
これは神戸高校に行っていなかったらなかったことなので、神戸高校卒業で本当によかったと思っています。


-土屋さんは、江井の助手もされていたとお伺いしました。合唱部で文化委員長。そのうえ江井の助手まで!水泳もお得意だったのですね!

そうなんです。大学進学後3年間、江井の助手をしていました。
「江井会」というOBOGの集まりがあるので、そこにも入っています。私の時代の少し前までは、「運動部出身」でかつ「現役で国公立大学に合格」して人がなるもの、それが「江井の助手」でした。でも私の頃には、国公立大学への進学率も減っていたこともあって、私は合唱部でしたが「助手をやっていいよ~」みたいな空気でした。


ー「江井を経験してはじめて真の神高生になる」と言われていた時代ですよね。

今思えばパワハラといいますか、「アウト~!」なことも多かったですよね。
でも神戸高校愛に溢れた人たちが助手として参加していましたし、神高魂を叩き込まれるという意味では面白く意味のある行事でした。
臨海学舎中はとても怖かった助手たちも、帰り道にはめちゃくちゃいいお兄さんお姉さんに変貌するので、帰りの雰囲気はとてもよかったですよ。(笑)

助手は事前に研修のようなものがあって、全体の流れや注意するポイントの説明を受ける機会がありました。助手一年目には、私たちが高校生だったときに助手をされておられた先輩たちもまだ残っておられるわけで、助手として参加していてもそれはそれで恐ろしかったですよ~(笑)。
臨海学舎のときにはキャンプファイヤーをやりましたが、助手も出し物をしましたよ。



ー「江井会」というものがあることも今回はじめて知りました。

江井の助手の繋がり、今も強いです。飲み会だけでなく、みんなでスキーに行ったこともあります。
中にはこちらのワイナリーまで遊びに来てくださる方もおられますよ。


ーさきほどすこしお話が出ましたが、土屋さんは神戸高校から現役で大阪大学に進学されたのですね。

はい、大阪大学工学部の発酵工学(現在の応用生物工学)に入学しました。さきほどお話しした通り、神戸高校は4年制なんて言われていたくらいでしたから自分も浪人する覚悟でいたのですけれど、たまたま現役で合格できました。
私は理系でしたが、実は研究対象は何でも良かったんです。当時はちょうどバイオテクノロジーの黎明期だったので、流行りものにくっつく感じで発酵工学を志望しました。
最初の2年間は神戸の自宅から通い、研究が忙しくなってきたので残りの2年間は下宿しました。

ちょうど私の就職活動前くらいに男女雇用機会均等法の改正等があって「これは就職に有利になるかな~」と漠然と考えていたのですが思っていたよりも難航しました。結果、研究職で雇っていただけるということで菊正宗酒造株式会社に就職しました。5年間勤めたのですが、その間に改正男女雇用機会均等法が浸透してきました。
「醸造研究所」という総合研究機関が当時は東京にあったのですけれども、そこに研究生として毎年送り出すのも、そろそろ女性でいいのではないかという流れになってきて、私が1年半行かせていただくことになりました。醸造研究所は今、「酒類総合研究所」に名前がかわり、東広島にあります。

今でこそ各日本酒メーカーも自社内に研究室があって、それぞれで麹菌を用いたスキンケア用品等の研究もやっていますけれども、当時は「酒屋は酒を作るだけ」でした。ですから私は醸造研究所で、DNAとか○○に向いた酵母の研究等、微生物学のようなものの研究をしました。

1年半の研究を終えた頃にはちょうど会社に研究室ができていたので、研究してきたことを会社に引き継いで、同じく共和発酵から醸造研究所に研究に来ていて知り合った主人と結婚しました。実は主人も同じ大学の同じ発酵工学出身です。学年も違いますし学生時代はお互い知らなかったのですが、学内ですれ違ったりはしていたでしょうね。

そうこうしている間にバブルが崩壊。
一流企業で働きづつけることに対する人々の価値観も変わってしまった時でしたよね。私も例外ではなく、これを機に主人の実家である山梨のワイナリーに行こうか。と思って、山梨に来ました。

学生時代からお金をかけずに海外旅行にもよく行っていましたし、常に「外に出たい」という意識が強かったので、山梨に移り住むことに対する不安はまったくありませんでした。


-日本酒の会社にお勤めになったあと、ワインの世界に。

発酵というところは日本酒もワインも同じなのですが、ワインの場合はブドウを作らないといけません。
ブドウをつくることに関してはなんの知識もなく山梨に来ました。
主人も、実家ではあるけれどもブドウ作りについては研究していないので、勉強をしなくてはならない、とオーストラリアのアデレード大学の大学院に1年間留学し、ワインとブドウ栽培を学ぶことになりました。本当は夫婦二人で留学したかったのですが、当時既に主人の父が体力的にもワイナリーを経営していくのがきつそうだったので、主人が山梨に残ってこのワイナリーを守りつつこちらでブドウ栽培を勉強をし、私はオーストラリアで勉強してくるという形を選択しました。

31歳の時に帰国して、子どもができて、育てながら仕事をして今に至ります。
去年より今年、今年よりも来年のワインが美味しくなるように!
土屋さんとこだわりのラベルの機山ワイン(3月撮影)
-今こうして甲州市におられますけれども、プライベートで神戸に帰ってこられたりもしていますか。

両親も健在で、実家が神戸ですので、時々帰りますよ。
妹が神戸高校40回生なのですが、大阪に住んでいることもあって、しょっしゅう実家に帰って両親の様子を見てくれています。
もともとの実家は神戸高校に向かうバス道沿いにありました。両親の年齢のことも考えて今は引っ越ししましたが、前に住んでいたその実家を手放したときに、「あなたの実家がなくなっているけど!」といろいろな人からご連絡をいただきました。(笑)
みなさん、同級生の実家を普段から気にかけて見てくださっているんだなとありがたかったです。


ー機山ワインは、味はもちろんのこと、ラベルもおしゃれでこだわっていらっしゃると、ワイン通の友人に聞きました。

あら、ありがとうございます。
当ワイナリーは主人で三代目なんです。そもそものラベルのモチーフは二代目である主人の父が作りました。

父がやっていた約40年前は、まだワインという飲み物自体がまだ一般家庭に浸透していなかったように思います。地元の人が自分達が嗜むために買ったりとかですね。今でこそ、関西ではまだ難しいものの、東京では山梨のワインや日本のワインを普通に飲めるようになりましたが、父の時代、「ワインはパーティや特別ななにかがあるときに飲むもの」という感覚でした。
そのイメージを変えたいとずっと考えていたところ、ご紹介で画家の宇佐美圭司さんをご紹介いただいたんです。それで宇佐美さんにラベルをデザインしていただこう、とお願いしたのがこのラベルです。

この40年余でワインのイメージもだいぶ変わり、「自分でワインを作りたい」という若い人たちも増えてきましたし、ワインの免許もとれるようになりました。山梨だけでなく全国的に、ワインを作ることに対する関心が強くなってきているのは、嬉しい流れです。

日本酒業界とワイン業界を比べますと、日本酒の方が10倍以上大きなマーケットです。
でもネオ日本酒、クラフト日本酒、のような、海外でも好まれる「新しい日本酒」が台頭してきているので、昔ながらの老舗日本酒メーカーが苦戦している状況です。
一方でワインはどんどん身近なものになってきました。

日本酒は作る人と売り手が違います。たとえば私がいた菊正宗酒造でしたら、菊正宗が良い丹波杜氏さんを雇って良いお酒をつくっていたんです。杜氏さんとしては、「どうしてこんなに美味しいお酒が作れたのに、売れないんだろう?」と首を傾げるわけですね。
時代の流れやマーケティング戦略等も必要になってきていますね
ワイン業界も同じです。私たちのような、昔ながらの保守的なワイナリーはまだ苦戦していますが、新しい打ち出しをしてくる人たちも多くなってきた今、ワイン業界も変わりつつあると実感しています。


-たとえば灘五郷の日本酒でしたら、乾杯条例があったり、区や市が力をいれてPR活動をしています。
 山梨や、甲州ではいかがですか。


 「ワイン県 山梨」として、県も力を入れています。日本ワインサミットが開かれたりもしています。
 乾杯条例は山梨にもありますよ。感覚としては兵庫県とか神戸市が力をいれているのと同じです。
 "GI山梨" (GI=ジオグラフィック インディケーション、「地理的表示制度」)もそのひとつです。もともとは甲州等ワイン生産地としてイメージのいい地名を、中国とかで勝手に使われてしまっていたことに対抗するための国際競争力強化の一策として導入されたものです。フランスならボルドー、ブルゴーニュ等、勝手に使ってはいけない地名がありますけれども、それと同じようなものを日本でも導入しよう、と。もっと細かいことをいうと、勝沼とかもありますけれども、細かくしすぎると「そこで作ったぶどうしか使っちゃダメ」となってかえって自分たちの首を絞める結果になりかねないので、今は”GI山梨”です。

赤ワイン・白ワイン量的には半々ですけれども、ブドウの種類で言うと山梨では「甲州種」が圧倒的に多いです。山梨のワインの売りとしてはこの甲州種のブドウを使っている、という点でしょうか。
「世界的にこのブドウで作ったら美味しい」と言われる、シャルドネとかメルローといったブドウも山梨で栽培はしていますけれども、オリジナリティで言うと「甲州」のブドウですね。


-今後の展望を教えていただけますか。

私たちも現在に至るまで、たとえば同じ甲州種のブドウを使ってスパークリングワインを作るなどいろいろなことを試してきました。
高い評価もいただいて、そして「機山ワイン」という名前もより多くの方々に知っていただけるようになりました。
この先は、品質を向上させていくことを意識していきたいなと考えています。

人って、同じものを食べたら「前に食べたときの方が美味しい」と感じるそうです。だんだん慣れてきてしまうので。
そういわせないように、去年より今年、今年より来年のワインが美味しくなるように、品質向上に注力したいと思っています。
ブドウって年によって原料がばらつくので、良いときも悪いときも皆様のご期待以上のものをつくる、高品質の継続性みたいなものってとても大切ですから。

人手はそれほどありませんし、あたらしい機械を次から次に導入するというのはなかなか難しいので、常に注意深く見ながら品質をあげていきたいと思っています。

機山ワインは主人で三代目ですけれども、今のようなスタイルで売り出したのは、さきほどもお話ししたとおり二代目である主人の父の代からなのです。
当ワイナリーは創業93年ではありますが、一般の人たちが今のようにワインを嗜むようになってまだ40~50年です。ワインを飲む人が増えた、層が広がった、これは大きな流れですね。
その中で、ブレずに丁寧に作ったワインを毎年出し続けてきたことが実って、「このワインなら間違いない」と思っていただけるようなブランド力はつけてこれたかなと感じています。

オンラインショッピングも定着してきたことも時代の流れと言えますね。当ワイナリーのワインをオンラインでお求めいただくこと多いです。

主人の祖父がワイナリーを開く前は、この地域は養蚕業が盛んでした。蚕を飼う→生糸にする→絹にして海外に輸出する、という流れだったんですけれども、大恐慌があって輸出がままならなくなった際に、ワインにシフトをしたという感じです。ブドウはその頃から既にこの地域で作られていたので。


ーお子さんたちも、そんな土屋さんの姿を見ながら成長してこられたのですね。

娘が二人います。二人とも大学では農学部でしたが、長女は大学卒業後酒類の会社に入り、次女は今フランスでワインの勉強をしています。
このワイナリーをどうこうしてもらいたいと考えて二人を育ててきたわけではありませんが、興味関心を持ってくれたのかなと思います。結果的にワイナリーとは違う道に進んでも、それはそれで構わないと思っています。
娘たちから見て魅力的な会社、魅力的な産業であり続けたいですけれども。

私自身が両親にそうさせてもらったように、娘たちにも、自分がやりたいことをやりたいように生きてもらいたいですね。





 
後輩たちには 「外を見ること」を」諦めないでほしいです
ワイナリーから見える富士山(3月撮影)
ー最後になりましたが、神戸高校の後輩たちにひとこといただけますか。

実際自分の子どもたちですら、今の神戸高校生たちより半世代上になってしまっていますけれども、
私たちはバブル世代といいますか、娘の世代からしたらビックリするようなことも往々にしてあったと思います。
今の子達の方がよほど地に足がついている、現実をしっかり見ているなと思います。
今の若い人たちに私から言えることはなくて、むしろその姿を見せてもらってこちらが感心しきりです。

強いて言えば、いろいろな社会的な閉塞感のなかでも、決して「外を見ること」を諦めないでほしいということでしょうか。
まだ15歳、16歳。どこにでも行ける、何者にもなれる。その思いを持ち続けてほしいです。

私たちの時代ももちろん、15歳16歳のときはそんなかんじでしたけれども、今の時代は逆に、情報が事前にたくさん手に入って、いろいろな現実が先にわかってしまいますよね。それでいろいろなことをやらずに諦めたりしないでほしいです。
神戸高校に入学しているということは優秀な人たちだし、やればできる子ばかりです。

-そして合唱部の後輩たちにもひとことをお願いします!

合唱部も部員が少なくなってしまったり、男子部員が少なくなってしまったり、いろいろな波があって今に至っています。
3年間ひとつのことに打ち込むということは貴重な体験ですし、そんなことは高校生の間しかできませんから、是非合唱に一生懸命打ち込んでほしいです。そうすれば目の前が拓けてくると思います。

ー貴重なお話をありがとうございました!今後ますますのご活躍をお祈りしております!

 
【土屋由香里さんプロフィール】

長峰中学から神戸高校に。
高校在学中は合唱部に所属していただけでなく、文化委員長としても活動。
その後大阪大学に進学し、卒業後は菊正宗酒造株式会社に入社。

オーストラリア留学を経てご主人のご実家である機山洋酒工業株式会社に入社。
日本を代表する「機山ワイン」のさらなる品質改良に熱意を傾けている。